ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

本当の幸せは 目指した先では得られなかった


  ブラジルのサッカー選手のお話です。ジョルジーニョっていうような名前だったと思います。

  彼は、スラム街の生まれで、貧しい中で育ちました。彼は大富豪に憧れました。貧乏は嫌です。お金持ちになりたかったのです。

  お金持ちになったら、幸せになると思いました。豪邸に住み、綺麗な奥さんと綺麗な身なりの子供に囲まれ、高級車に乗る豊かな生活を夢見たのでした。

  スラム街から成り上がる唯一の方法は、サッカー選手になる事でした。彼はサッカーに明け暮れました。

  努力は実りました。プロサッカー選手になったのです。選手になってから、子どもの頃の夢を叶えるために尚一層努力しました。

  お金持ちになりました。豪邸を建て高級車を乗り回し、美しい理想通りの女性と結婚も出来ました。可愛い子供にも恵まれました。

  欲しかったものは手に入れました。何の不足もありません。人々から敬われ、応援してくれる人も大勢います。

  スラム街では英雄です。スラム街のみならず国民的に支持される立場となりました。

  でも何かが足りないのです。無いものだらけだった頃には気づかなかったのですが、生活が豊かになり、何不自由ない者となって初めて気づいたのです。

  生活は豊かになり、人々も羨む暮らしを手に入れているのに、訳の分からない不安がありました。

  この生活がいつまで続くかという不安でしょうか。何者かに奪われるという不安でしょうか。たぶん生きて行く事に対する不安に近かったのでしょう。

  得体の知れない不安、心にある空洞のようなもの、成功やお金では埋められないものの存在から来る不安でした。

  彼のお兄さんは相変わらず、生まれ育ったスラム街に妻と子供と住んでいました。サッカー選手になった彼には、不思議でした。

  お兄さんはこの生活に満足しているのだろうか?こんな暮らしで幸せなんだろうか?お金持ちになりたかった彼には理解出来ない事でした。

  お兄さん一家は慎ましく寄り添うように生活していました。不満もなさそうです。サッカー選手で成功した彼には理解出来ませんでした。

  お兄さん一家には静かな暮らしがありました。成功からは程遠い華々しさの無い平凡な暮らしです。

  ある時、お兄さんの貧しい家で共に食事をする機会がありました。お兄さん一家は神を信じるクリスチャンでした。食事の前に神に感謝の祈りを捧げます。一家は皆首を垂れて、食べられる恵みを感謝しました。

  お金持ちの彼は驚きました。お金を払えば何でも手に入る生活の中で、神に感謝する行為をした事はありませんでした。

  成功は自分の努力の結果だと思っていました。この祈りの最中に彼は気づいたのです。お兄さんは持っているけど、自分の中には無かったものに気づいたのです。

  いつも不思議でした。豪邸に住む金持ちの自分は心が乾いているのに、スラム街で暮らす貧しい兄は幸福そうに見えました。

  古びた家で、家財道具も少なくて不自由そうに見える兄が幸せそうなのです。何の不足も感じていないかのように平和です。

  一方、自分は生活に不満があるわけでも、家族に不満があるわけでも無いのに、自分の中に兄の持つ平和な気持ち、平安が無いのです。

  兄が信じている神の中にその秘密があるのなら、自分もその神を信じて見たいと思った瞬間でした。

  彼はキリストを自分の主と信じて、洗礼を受けてクリスチャンになりました。乾いていた心は、生ける神から流れ出るいのちの水で潤されました。

  キリストのいのちのことば(聖書の言葉)で、彼は永遠に生きる者となったのです。

  豊かな生活の上に、豊かな安らぎを得たのでした。その安らぎは、豊かな生活の中にでは無く、素朴な信仰の中に見つけました。

  それは、何にも代え難い、かけがえのない喜びと平安でした。彼は、キリストを証しする人となりました。

 

  神を賛美する歌に、このような歌があります。

  わたしは山に向かって目をあげる
  わたしの助けはどこから来るのか
  わたしの助けは天と地のつくりぬし
  主なる神様から来る
  君はひとり誰かを求めている
  それが誰かは知らないだろう
  君の心を満たしてくれる人は
  君をつくられたお方
  君の心を満たしてくれる人は 
  君をつくられたお方

  
  サッカー選手になって成功した人生を得た彼は、キリストを心に迎え入れて永遠に価値あるいのちを得たのでした。彼の人生は永遠に輝くのです。