ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

命名と命日


  赤ちゃんが誕生して、その生まれたての命に名前が付けられます。名前がつけられる事を命名と呼びます。

  赤ちゃんは、この名前で呼ばれ、殆どの場合、生涯この名前を使って生きます。それがその人の人生となります。

  成長し、年を重ね、やがて命の終わりを迎えます。この日を命の日と書いて、命日と呼びます。

  人は誰でも赤ちゃんとして生まれ、ご遺体となって葬られます。人生で使っていた名前ではなく、後に命日と呼ばれる日(亡くなった日)からご遺体と呼ばれるのです。

  聖句に、「人は裸で生まれ、裸でもとの所に帰る。労苦して得たものを、何一つ携えて行くことは出来ない」という言葉があります。

  母の胎から出た赤ちゃんは、神に鼻から息を吹き込まれて、「おぎゃあ」と泣いて命の活動が始まります。

  埋め込まれた本能で母乳を吸い、体の器官は機能します。

  ある人は手のひらを太陽にかざして細い血管が透けて見えた時に、(こんなに精巧なものが偶然の産物だろうか)と思い、創造主の存在を信じた、と証されました。

  あるテレビ番組で、手のひら、足裏のしわの事をやっていました。この細かいしわが、何かを持ったり歩いたりする機能を担っているというのです。

  もし手のひらにしわが無かったら、濡れた手で物を持つ事は出来ません。ツルツルすべって落としてしまうでしょう。

  もし足裏にしわが無かったら、お風呂で歩く事は勿論、立つ事も出来ません。ツルツル滑ってすってんころりんと転がってしまいます。

  その番組では、しわの機能が優れている事に驚いていました。私は全能の創造主の細やかなご配慮に感動していました。


  後に命日と呼ばれるその日に、その名前の人の命の営みは終了します。

  神の息が吹き込まれて人として生きて来た命は、神の息が抜き取られて体の機能が止まり、人生を終えるのです。

  ある人は仕事で遅くなって、わびしい思いで夜道を歩き、駅について胸の内ポケットの定期券を取り出した時に定期券が暖かかった、と言われました。

  自分の体温で暖かかった定期券に、「ひとりでは無かった。神が共におられる」といのちの存在を感じて嬉しくなったと証されました。

  命は自分のものと思いがちですが、神の息が抜かれたら、神の働きは止まるのです。いのちの機能が働いているのは、神の息、神のいのちがその人のうちにあるからなのです。

  命日が、その人のいのちの機能が終わる日です。それは、その命に対しての神の判定の日とも言えます。

  やり直しは、人生の中での事であって、命日を迎えたらあとは結果を待つだけです。

  人生で得たお金や財産、名誉は、残念ながら、神の国に入るには、役には立たないようです。それらは携えていく事が出来ず、裸でもとの所に帰るのです。

  人生で掴んだいのち、創造主を信じ神のいのちを得た者は、裸ではなくて、永遠のいのちという、神が与えて下さる財産を携えて天に帰るのです。


  自分の命日がいつなのか、分かって生きている人は誰もいません。だから、いつ来てもいいように備えなければなりません。

  若いから、まだまだというわけではありません。子どもであっても訪れます。

  自殺者は神の息が抜き取られた人生の集大成の日を、命の日ではなく、神の息を殺した罪の日、死の日としてしまうのです。

  神は人に永遠のいのちを得させるために、命を与えられたのです。この生命の期間に、自分に命を与えられた創造主を知り、神の用意されたいのちの道(救い主キリストとともに生きる人生)を歩む者となりたいですね。