ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救いの証②ーイエスは神の子だったー


  キリスト教を知るには、長崎に行くのが良い、と思いました。でも、どうしたらよいのか、分かりません。

  そんな頃、『この子を残して』という木下恵介さんの映画のロケ地を巡る旅の優待券が手に入りました。

  カトリック信者だった主人公の物語で、三日間天草四郎や、浦上天主堂や大浦天主堂などキリスト教にゆかりのある場所を巡る旅でした。

  最初の二日間は雲はあるけれど、いい天気でした。天主堂巡りをする最後の日は、空全体が白い雲に覆われどんよりしていました。小雨が振り出しそうな空でした。

  長崎は今日も雨だった、っていう歌もあるくらいだから、長崎にとってはこれがいつもの天気かも知れない、と思いました。

  ホテルを出てツアー客は皆、バスに乗り込みました。バスの窓から見上げる空は、今にも振り出しそうです。

  せっかく長崎まで来ているのに、次はいつ来れるか分からないのに、晴れた天主堂が見たい。青空の下の天主堂を見てみたい、という気持ちが高まり、諦められません。

  窓際にいた私は目をつむって、心の中で神に祈りました。「イエスが神の子なら、キリストが本当に神なら、この天気を晴らせて下さい。青空にしてくれたら、教会に行きます。」

  短い祈りでした。でも、心を注いで祈りました。そして、目を開け、空を見上げました。

  不思議な光景を目撃したのです。スローモーションのように一刻一刻を丁寧に見る事が出来ました。バスはまだ、停まっていました。

  一面厚い雲に覆われた白い空に、私の視線の上に一本の筋が現れました。それは、カッターナイフで真っすぐに切り目を入れたようでした。

  切り目は青い筋でした。本当に真っすぐ綺麗な細い筋でした。すると、青く見える細い筋がどんどん太くなるのです。

  厚い白い雲は、カッターナイフで切られて、その切られた雲が右と左に離れて行くのです。

  雲の端は、綿のようにもやもやしているものです。でも、この時の左右に分かれる雲の端は、カッターナイフで切ったように、真っ直ぐなままです。

  目を丸くして見ていました。ずっと真っ直ぐなまま雲は右と左に分かれ、その後ろに隠れていた青空が現れたのです。

  細い線だった青空は、青い筋となり、青い幅の筋となり、やがて真っ青な青空となりました。白い雲は残っていません。空全体が雲一つない青空となったのです。

 

  バスの走行中に雲一つない青空になったのでした。ホテルを出た時の雨を落としそうな雲は一掃されたのでした。

  今思えば、それは茹でた里芋の皮に包丁の切り込みの筋をいれて、つるんと里芋が出てきたようでした。神が雲に切り込みの筋を入れて、青空を出して下さったようです。

  キリストは神なんだ、と受け止めた出来事でした。イエス様が神の子だと分かって天主堂を訪れるのは嬉しいものです。

  「家に帰ったら、教会に行きます」とバスの中で、神に誓いました。

  ツアー最後の観光は、大浦天主堂でした。到着です。心を弾ませながら、長い階段を足元を気にしながら、一段一段登って行きました。

  ようやく上まで辿り着きました。ほっとした瞬間の事でした。両足を上につけた時はまだ足元を見ていました。

  男の人のような、低い恐ろしい声で、「とうとうやって来ましたね」と挑戦的な言葉が投げかけられました。

  えっ?と、目をあげて見ると誰もいません。でも、はっきりとした言葉と声でした。忌まわしそうな、背筋が寒くなるような恐ろしい声でした。闇の者の声でした。

  そこには、静かに佇む慈悲深い姿のマリア像が立っていました。このマリア像からの声だったと分かりました。

  どうして?理解出来ませんでした。でも、やっぱり、マリア像からの声だったと確信しました。

  キリスト教と言えばカトリックのイメージがありました。でも、歓迎されていないようです。

  家の近くには、カトリック教会はありません。私はカトリックの方が正当なキリスト教だと思っていました。宣教師の教会は、プロテスタント教会です。

  もう、こだわる事はやめにしました。カトリックでなくていい、と思いました。