「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事が出来ません。」
洗礼を受けて水によって生まれた私は、心晴ればれでした。肉に死んだ。この世の悪いもの(憎しみ、呪い等)との関わりを断ち、これらの奴隷状態から解放されたのです。
でも、そんなに甘いものではありませんでした。敵(悪魔)も放っておくはずはありません。
家族や周囲と分断させます。孤独にし、「参った‼」とこの世の生き方に戻るように様々な場面で働きます。
洗礼で、肉に死んだ事になっているけど、実際問題としては、以前よりも自分の中の肉がはっきりと見えてきます。
もう、降参‼とお手上げ状態です。これは死ぬまで続く戦いのようです。でも、これで諦めたら、せっかく這い出した、神の恵みで救い出して下さり解放されたはずの、恐ろしい火の池に舞い戻ってしまいます。
神学校の講師が言っておられました。「キリストと共に十字架に掛かった者は、この世に死んだ者や。死ぬって事は、何にも反応しないという事なんや。」
「お墓に行って、お墓の中にいる死んだ人の悪口を言ったら、その人は墓から出て来て怒るやろうか?怒らへんな。死ぬって事はそういう事や。」
道理としてはよく分かるけど、自分自身の体験としては、到達不可能に思えます。
神は私達に完璧は望んではおられないのです。というよりは、完璧が望めない事を承知しておられるのです。
人には出来ないから、天におられた神の御子を、人の形で肉体をもって生まれさせ、人類の代表として、罪の処罰のために十字架にかけ、人類の罪の贖いをされたのでした。
天から遣わされた救い主キリストは、肉に死んで死から甦った後、天に上り、キリストの御名で、キリストを信じる者の心の中にキリストの御霊を遣わされたのでした。
火の池は肉が焼かれる場所のようです。身代りのイエスが十字架で肉を処罰されたので、霊の存在となった者(御霊と共に生きる者)は、焼かれるものが無いようです。
御霊は、キリストを信じる者に平等に与えられる恵みです。キリストを信じながらも、肉に従って生きているうちは、心の中に御霊が住まれる環境になっていないわけです。
御霊は遣わされているのに、その人の心の中に居場所を見つけられません。その人自身が御霊を心から締め出してしまっている状態なのでしょう。
イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見る事は出来ません」といわれました。水の洗礼を受けて、肉に死に新しく霊の子として生まれた人は、神の国を見たのです。喜びに満たされ、神の国を味わったのでした。
イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事が出来ません」ともいっておられます。
水によって新しく生まれた者は神の国を見ました。でも、見たのであって、神の国に入ったわけではなさそうです。
水と御霊によって生まれなければ、とあります。キリストの御名によってキリストを信じる心に遣わされている御霊を、本人の意思で心に迎え入れて、神の御霊と共にいる事で、神の国に入る事が出来るようです。
御霊は、キリストを信じる人の内にあって、キリストの事を教え、神の国へと導いて下さるのです。この御霊が、キリストが天に帰られた後に遣わされた、神の子の養育者なのです。
イエスはいわれました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、父(創造主)にお願いします。父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その方は、真理の御霊です。」
キリストを信じる者のうちには、この御霊が住み、「これが道だ。これに歩め」と道を示し、ある時は慰め、ある時は励ましながら、神の子として養い育てて下さるのです。