かつて読んだ、滝本明牧師のトラクトを思い出します。
ある外国のお話だったと思います。画家や画家志望者から作品を募集して優秀作品を選ぶお話です。
テーマは、『平安』でした。画家達は意気揚々と作品を持ち込みました。
静かな湖畔のような作品は、観るからに穏やかな気持ちになり、安らぎました。どの作品をとっても、静かな情景でした。
その中で一枚、大嵐の作品がありました。木々は風に揺れる葦のように、大風に翻弄されています。観ているだけで心が騒めくような絵です。
審査員らは眉をしかめました。作者に「君は、テーマが平安だという事を知っているのかね」と尋ねると、「はい。平安です。」と言うではありませんか。
審査員は憤る心を抑えながら言いました。「君。この絵のどこが平安だと言うのかね。」
作者は落ち着いて指をさしました。「ここを見てください。」
よく見ると、大嵐で枝がしなっている樹木の幹の高い所に、小さな穴があります。その穴の中に鳥がいるのです。親鳥がひなを覆うように翼を広げています。
作者は言いました。「この親鳥に守られている、このひなが平安なんです。」
審査員は驚きました。外にどんな大嵐があろうとも、親鳥の温かい翼に守られているひなは、安心しきっています。
「これこそが、平安だ。」と審査員は言いました。その作品がみごと優秀賞を勝ち取ったのでした。
私達は、何事もなく、平和な環境で心穏やかな平安を求めます。しかし、神は環境によるのではない平安を用意しておられます。
それは、何者にも奪われず何事にも左右されない、心のうちに置かれる平安です。この平安を得させるために、御子キリストを信じる者のうちに、神の御霊を住まわせられたのです。
神に信頼する心は人間のうちには、ありません。神の御霊のものです。信仰も人間にはなく、神のものです。
キリストを神の御子と信じ、主であると告白する事によって、信仰が始まるのです。
人を見るのではなくて、キリストのことば(聖書)に耳を傾けて、キリストに思いを向けているうちに訪れます。それは、一瞬のうちにかも知れないですし、長い時間がかかるのかも知れません。
人が救ってくれるのではありません。その人自身もキリストによらなければ、魂の救いは得られないのです。
神が与える平安は、その人を内側から守ります。心騒がせない不思議な安らぎです。親鳥の翼のように、神の御翼は神の子らを覆い、人生の大嵐の中でもかくまって下さるのです。