イエスは、失望せずに常に祈る事、自分を正しい者とするのではなく、へりくだって祈る事を教えられました。
人々から敬われる立場の人が宮に来て、自分が罪人のようではない事を感謝し、神のために行っている事を報告する祈りを献げました。
一方、罪人は宮から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて祈りました。「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい。」
イエスは、「この罪人が、義と認められて家に帰りました」といわれました。
「あなたは、祈る時には自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。
また、祈る時、異邦人のように同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
イエスは祈り方を教えられました。
「天にいます私達の父よ。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。
私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい。私達の後ろ暗い気持ちや罪をお赦し下さい。私達も、私達に罪を犯す者達を赦しました。
私達を試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」
父なる神が崇められるという天での秩序が、地に訪れるなら、そこは天の平安が満ち、神の御心が成し遂げられ、神の栄光が現れるのです。
神が私達を生かしておられる事を知る者は、私達に必要なものを神が与えられる事を知ります。
生活に必要なもの、癒しや解放も、あきらめないで、絶えず祈り続けるならば、神が答えて下さいます。
神は、何かを止める事、何かを手放す事、何かから離れる事、移動する事あるいは忍耐する事等、何かを示される場合があります。それに従う先には、願っていた以上の、また本人が気づかなかった本当に心を喜ばせるものがあるでしょう。
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求める事は何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かを求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
これは、イエスの約束です。
イエスの名によって、父なる神に祈る事は、イエスが神と人との仲介者である事を認める事であって、イエスを地上に遣わされた神の権威にへりくだる事です。
イエスの名によって祈られた祈りは、父なる神のもとに届けられ、神に覚えられます。
気落ちせず、祈り続けましょう。神のもとに届いています。
もし、祈りが聞かれないならば、その祈りが自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願う祈りであって、神の栄光が現れるための祈りではないのかもしれません。
祈りを叶えるには、時期尚早なのかもしれません。本人が忘れた頃に、突然実現して、神を讃えることになるでしょう。
祈りを積み上げた人ほど、神の働きを体験し、神の栄光を目撃するのです。
祈りは、神を体験し、神を知るために、人に与えられた神とのコミュニケーションです。
イエスを信じる者の、イエスの御名による祈りには、天の御国を来たらす力があるのです。
悪魔もこれには適いません。キリストの御名に力があるからです。
この力を、神は、信じる者に与えておられます。
神が下さった祈りによって、神の栄光を現わしていきましょう。
人類多しと言えども、神の栄光を現わすのは、イエスの御名を呼び求める者だけなのです。
生きて働かれる神を証していきましょう。