ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書の権威⑱-賛美ー


  賛美とは、被造物が、創造主である神を褒めたたえることです。

  存在するものが、存在の根源である方に、喜びに満たされて感謝し、神の御業に感動して、聖と義と愛である全能なる神を讃える事です。

  今でも天上では、絶えず天使が神を賛美し続けています。神は、賛美されるのに、ふさわしいお方です。

  賛美する事は、地上に天上の喜びとみわざを体験する事です。神は、賛美の中に住まわれるお方だからです。


  賛美する事によって、人は、天上の集会に加わり、神のご臨在に包まれ、聖霊の喜びと平安を味わうのです。

  神は、地上の人々にも、天上の喜びと安らぎ、キリストとの愛の交わりを、賛美を通して体験させておられます。

  目に見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続きます。

  賛美の中で、見に見えない神の栄光を見、神がおられる事を実感するのです。

  この事は、人から出たものではなく、神から与えられるものです。賛美の中に癒しがあり、解放があるのです。


  ジョン・ウェスレーだったか、世界的に有名な伝道者が、路傍伝道をしている時、多くの人が取り囲み聞いていました。賛美歌を歌う時に、チームの一人が、聴衆も参加させようとしました。

  伝道者は言いました。「やめなさい。神を賛美する心の無い者に歌わせてはならない。」

  チームの人は、集まった人の事を思っていました。共に歌えば、彼らも神を賛美するわざに加わる事が出来ると考えたのかも知れません。

  伝道者は、神の事を思っていました。神に献げるものは良いものでなければなりません。真心をこめたアベルの献げ物でなければなりません。

  カインは、神にうわべだけのものを献げて、神に退けられました。

  賛美とは、賛美歌を歌う事ではなくて、神に感謝し褒めたたえる心を神の御前に立ち上らせる事のようです。

  賛美には、賛美歌を歌う賛美もあれば、祈りをもって神をたたえる賛美もあります。


  自分が神になりたいと思っている悪魔は、人間を支配し、人間に恐れられ、礼拝されたいと願っています。

  神が賛美される事は、悪魔よりも神が高く上げられる事であり、悪魔が神でいられない事であり、悪魔にとっては耐え難い事です。

  人が神を慕う事においては、悪魔は敗北感ではなく、まだ望みを持っています。

  賛美歌を歌うだけなら、悪魔は恐れません。

  しかし、神に向かう心からの賛美には力があります。この賛美には、悪魔の要塞を打ち破るほどの力があります。

  その賛美の中には聖霊の臨在があり、悪魔の働きを止めます。悪魔も神の支配下にあるからです。悪魔も神には適いません。

  悪魔は、神が住まわれ、聖霊が働かれる賛美を憎んでいます。

  神の聖徒達が、神を心の目で見て神の御前に献げる、御霊による霊的な賛美をしないように、歌う事に喜びを感じさせます。

  歌うだけの賛美には、御霊の力はなく、悪魔は恐くないのです。

  悪魔は、聖徒の思いが開かれて、霊的に神と交わり、霊的な賛美者になる事を恐れ、天上の賛美を味わわせないように働いています。

  賛美は、悪魔との戦いの武器でもあります。

  エリコの城壁は、戦いに武装した者の後に七人の祭司達が主の箱の前を行き、雄羊の角笛を吹き鳴らし、その後ろの民がときの声を上げると、崩れ落ちました。

  イスラエルの戦士の後には、祭司の吹き鳴らす角笛の音と主の臨在の主の箱があり、角笛の音を聞いてあげた民のときの声で、城壁は崩れ落ちたのです。

  悪魔と戦う力は、賛美にあり、賛美の中に住まわれる聖霊にあるのです。

  悪魔が恐れる、心からの賛美を神に献げていきましょう。

  悪魔の居場所を破っていきましょう。

  賛美の器となるように、祈りましょう。

  賛美を献げて、地上に神の働かれる場所を数多くつくっていきましょう。

  勝利の神の栄光を、聖徒達が世に現わしていくのです。

  地上で神の栄光を映し出すのは、キリストを主とする聖徒達だからです。