「救い」とは、悪い者から救われる。最悪の状況から救われる。心の悩みから救われる。貧困から救われる。絶望から救われる。
今ある事から、脱出する事をいうのでしょうか。
聖書の救いは、罪からの救い、滅びからの救い、死からの救い、さばきが免れる事のようです。
キリストの血は、罪の赦しを宣言し、罪を犯す心に見張り人(御霊)を置かれて、罪から離れる新しい心を創造されます。
神は、いのちの救いを与えられるのです。新しい人に変えられるのです。
神は、死んでいく命に、生き続けるいのちを与えられます。
聖書の神は、この世のものではありません。キリストもこの世のものではありません。キリストを信じる者もこの世のものではなくなるのです。
イエスによって神のことばが与えられました。神を信じます。そうすると、世はイエスのことばを信じる者を憎みます。世は、信じられないからです。
世は、自分のものを愛します。神を信じる者は、世のものではないのです。
世を愛されたキリストを、世は憎みました。
キリストは、世からご自分の者を選び出します。それで世は、キリストの者を憎みます。世は、先にキリストを憎んだのです。
キリストは、世から救って下さいました。悪魔の支配、罪の奴隷から救って下さったのです。
信じる者は、この世に生きながら、神の栄光と永遠の希望と愛に向かって歩んでいるのです。
イエスはいわれました。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいが沢山あります。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
信じる者は、実在する永遠の場所に向かって、日々生活しているのです。それは、虚しいものではありません。
聖書の神が約束しておられる救いとは、罪が赦されてさばきが免れる事だけではありません。
この世から救われて、永遠に生きる者とされるのです。
また、永遠のいのちで生きる場所もあるのです。住まいまで用意されているのです。
ただの罪人が、神が天から遣わされたひとりの人の死と復活によって、罪が無いと宣言されて裁きが免れるだけではなく、滅びの世から救い出されて、死からも解放されるのです。
その上、永遠のいのちを与えられるにとどまらず、住まいまで備えられており、神の栄光を受けて、神の国で永遠に生きる者として下さるのです。
身の丈に合わない光栄。誰が望んだでしょう。誰が知っていたのでしょうか。
神から遣わされて地に来られたキリスト・イエスは、この想像を絶する救いを成し遂げられたのでした。
最後の裁きをされ、からだも魂も火で焼く権威を持っておられる神が、人のために創造された「救い」です。
神の用意された救いは、勝利する者(キリストを主とする信仰の勝利者)にとこしえの栄光を受けさせるのです。
これが、聖書に書かれている、キリスト・イエスにある救いなのです。
永遠のいのちが与えられる魂の救いほど、麗しくて尊いものはありません。
神は、イスラエルをエジプトの奴隷から解放し、エジプトの地から救い出して、約束のカナンの地(イスラエル)に導き入れたように、キリストにあって集められる民を罪の奴隷から解放し、世から救い出して、永遠の神の国に導き入れられるのです。
時が来て、世界に離散していたユダヤ人を、先祖の地イスラエルに集めておられるように、聖書の神は、キリストにあって約束された事を、終わりの日に必ず成就されます。