他教会のある人が、「教会の中で疎外感を感じる。私は霊的孤児だ」と言いました。私自身にも当てはまるように思いました。
でも、私の場合は、自分自身で教会に入り込んで定着しようとしていないのでは、と思い当たる節があるので、私は野生児なんだ、と思いました。
家(教会)はあるのに、安らぐ場所ではない。キリストを信じる人々の集まりですから、社会にいるよりは自分の国にいるような安心感はあります。
私の心は、ずっと父の家を求め、私を飼ってくれる羊飼いを求めていました。
神に強くせがんで祈った事がありました。「私に牧舎をください。他の人々のように、私を養い守ってくれる牧師を与えて下さい。」
神は静かな声で優しくいわれました。
「わたしがあなたの牧者である。」
「あなたが牧者である事は、どの人にとっても同じです。他の人は、ちゃんと牧師がいて、教会にも守られています。私にも人間の牧師を下さい。」
「わたしでは、不満か?」
人は教会に繋がる事を重要と考え、そうでないと、兄弟姉妹の信頼を得る事が出来ません。
牧師に聞き、忠実である事が教会で徳のある者とされます。
そうではない私に、神は叱責されるどころか、わたしがあなたの牧者である、といわれます。
隙間風の吹く穴だらけの家にいる気分です。ちゃんとした家には住めないんだ、と肩を落としました。
それからは、私の牧者である主に何でも打ち明けるようになりました。神だけが私の頼みの綱、私の保護者なんだ、と思いました。
色々ある中で、牧師という立場の人に恐れを抱くようになりました。
教会の会堂で、ひとり泣き叫んでいました。
その教会を退会した後、私の精神は病んでいました。病院に行くわけではなくて、癒しを求めて超教派のセミナーに参加しました。
セミナーの中にいても、何故か一人ぽつんと居る感じです。癒しのミニストリーの後も空しさが残ります。
悩みの根本が解放されないと、どこへ行っても同じだ、本当の解決はないと思い、恐れからの解放を求めました。
事情を話すと、講師は皆一様に顔を曇らせます。多くの場合、祈りの中で、私を責めます。益々、私の精神は追い込まれていきます。その繰り返しでした。
分かってはいるけど、一縷の望みにすがって様々なセミナーの講師に祈りを求めました。
ある時、自分は、長血を患う女のようだ、と思いました。癒しを求めるけど何のかいもなく、かえって悪くなる一方です。それでも、諦められません。
この恐れから解放されないと、野生児の私の信仰は潰れてしまいます。信仰が歪んでしまったら、神が正しく見れなくなります。
般若心経を念じて救いを切望していた私が、やっと辿り着いた真の救い。キリストから離れる事は出来ません。
でも、キリストへの信仰は教会とともにあるのではないでしょうか。教会に敵対するならば、キリストのしもべとは言えません。
神学校で学んだ知識が、私を責めました。
解放を求めて動き回る中で、牧師への怒り、悲しみ、嘆き、赦せない思いは、どんどん削られて、ただ解放されたい、リセットして初期化したいと思うようになっていました。
ある教会のセミナーに参加した時、その教会の牧師に祈りをお願いしました。
「牧師という職業の人が恐いです。この恐れから解放されるように、祈って下さい。」
その牧師は今までとは違いました。顔色を変える事なく、静かに言われました。
「私を赦して下さい。」牧師はうな垂れておられます。
私は驚いて言いました。「いいえ、先生ではありません。」
すると、その牧師は言われました。
「私も牧師です。私も同じように人々を傷つけたでしょう。私を赦して下さい。」
そして祈ってくださいました。私の心は軽くなりました。
祈りの前の先生の言葉で、私を縛っていた縄がメラメラと解けたのでした。長い間の長血はその時、ぴったりと止まり、癒された事が分かりました。
その後、かつて泣き叫んでいた会堂でのセミナーに参加しました。
その時の講師、アメリカから来た預言者は言いました。
「女の人の泣き叫ぶ声がする。しかし、変わります。教会は変わります。牧師は変わります。」
その女の人は私だ、と分かりました。
退会した教会の集会に参加できるほどに、私の心は癒されていました。
しばらくして、その教会に対しての悲しみや痛み、牧師ご夫婦に対するわだかまりが私のうちから消える事を感じました。
牧師ご夫婦が、主に悔い改められたんだ、と思いました。それで、主は牧師ご夫婦を赦されたのだ、と気づきました。
主が赦されているのに、私が赦さないのは、私の罪となると思いました。
聖霊が私に、牧師ご夫婦が神の御前で正しい者とされ、牧師ご夫婦もまた、縄目から解放された事を霊の内に教えて下さったようです。
双方のわだかまりは無くなりました。
神は、その教会を祝福し、神の働きは広げられ、多くの人を集め、神の喜びが増し加わっています。