教会の日曜学校の教材は、いのちのことば社の『成長』を使っていました。
教師用の『成長指導書』には、その週のテーマに合わせた様々な人の証も書いてあります。
それは、信仰書を読んでいる時のように、心に刺さり、心に響き、教師自身がとても恵まれていました。
それに書いてあった事が今でも思い起こされ、信仰の励ましとなり、支えとなっている気がします。
ある教会の牧師の証でした。
その教会は古い教会です。木造建築で、会堂には、ベンチ型の木の椅子が並んでいました。
長い間、その地域に建っていた教会でしたが、信者の数はありませんでした。
牧師は、毎朝5時台でしょうか、早朝に起きて会堂の木のベンチ型の椅子の同じ場所に座って、地域の救いのために、また、人を教会に送って下さるように祈っていました。
一日も欠かしませんでした。祈りは積まれているのに、目に見える変化はありません。
ある時、牧師は、神に心にある事を打ち明けました。
「神様。私は毎朝あなたの御前に出て祈っております。それなのに、何一つ変わる事はありません。」
「私は、あなたに何の役にもたっていません。私はあなたに何の働きも出来ていません。」
すると、神は語られました。
「立って、あなたの座っているところを見なさい。」
牧師は立ち上がって、自分が座っていた所を見ました。木の椅子には、牧師のお尻の跡が残っていました。
長い年月をかけて残された、祈りの痕跡でした。
神はいわれました。
「あなたの祈りは覚えられています。天に積まれています。」
牧師は勇気をもらいました。自分のしていた事は宙を打つような空しい事ではなかった。神のもとに届いて神に覚えられていたのです。
目に見える変化はなくても、牧師は神の御前に出て、心を注いで祈り続けました。
牧師の年齢がかさんでも、相変わらずでした。それでも、牧師は祈り続けました。
ある時、一人の青年が教会にやって来ました。その青年に洗礼を施しました。何年ぶりかの受洗者です。
牧師は、その羊を懐に抱くようにして、愛情を注いで大切に育てました。
やがて、その青年は神に献身し、未開国の宣教師として旅立って行きました。
牧師は、その青年の宣教の働きのために、日々祈りました。
神は、その青年宣教師を通して、三千人以上の現地の人を救われたのでした。
人の目の見えるところでは、ひなびた教会ですが、神の目には、いのちを生み出す力が溢れる、泉のように生きた教会だったのです。
マルチン・ルターは、受洗した後、自分にとって大切な50人の人の名前を書き出し、一人一人の名前をあげて、彼らがキリストを信じ、救われる事を祈っていました。
大半の人が救われていきました。残り数人というところで、ルターは亡くなりました。
しかし、ルターの死後、残りの数人すべてもキリストを信じ、神のしもべとなりました。
祈っていた人が死んでも、その祈りは神が覚えられています。
祈りの人が死んだ後でも、神はその祈りを働かせられるお方です。救うのは、祈っている人ではなく、神ご自身だからです。
祈る人は、地上に神が働かれる場所を備えているのです。働かれるのは、神です。
人の目ではなく、神の目を意識して、神に覚えられる生き方をしたいと思いました。