あるクリスチャンの婦人の証です。
クリスチャンのカウンセラーの学びのセミナーに参加されました。
会衆の中で、カウンセリングのモデルとして、クライエントの役で講師のカウンセリングを受けました。
婦人には、成人した三人の娘がいました。上の娘と下の娘は結婚していました。
婦人は真ん中の娘の事を、心配していました。
「真ん中の娘は、幼い頃から活発でよく話し、成績も良く、今は国際線のスチュワーデス(現キャビンアテンダント)の仕事をしています。
上の娘も下の娘も明るく、幸せな家庭を築いています。真ん中の娘は幼い頃とは違って、会話も少なくなり、明るさが足りない事が気になります。
仕事で疲れているのでしょうか。何か籠った感じで、結婚の兆しもありません。上の娘も下の子も結婚しているのに、どうしてでしょうか。
真ん中の娘にも良い結婚相手と、幸せな結婚をしてもらいたいのです。」
カウンセラーである講師は、尋ねました。
「どのように、お子さんを育てられましたか。」
「みんな、平等に育てたつもりです。」
「それがいけないのです。一度抱きしめられて満足する子もいれば、何度も抱きしめられないと満足できない子もいます。
真ん中の娘さんは、何度も抱きしめられないと満足できない子なのでしょう。他の娘さんと同じでは、満足できない子なのでしょう。」
婦人は驚きました。
「真ん中の娘は、いつも元気で私に話しかけて来ていたし、成績も良くて、何の心配もいらない子でした。放っておいても大丈夫な子だったのです。」
カウンセラーは言いました。
「お母さんに褒めて貰いたくて、お母さんに認めて貰いたくて一生懸命に努力していたのを、お母さんは面倒見なくても大丈夫だと、思ってしまわれたのではないでしょうか。
その娘さんと向き合って話を聞いてあげて下さい。」
婦人は帰国し、帰宅した娘に、セミナーの話をしました。
すると、娘は堰を切ったように、小学生時代から順にお母さんが自分にしてくれなかった事を投げつけて来ました。
セミナーで学んで来た婦人は、何も言い返さないで、弁明もせず、娘の吐き出す言葉を聞きました。
こんなに不満が溜まっていたのか、という思いと、こちらはしおらしく「ごめんね」と謝ったのに、よくもこんなに次々と出て来るわ、という腹立たしい思いが湧きましたが、ここは我慢です。
夜帰宅してから、一睡もせずに話し続けました。ふたりとも泣きました。
婦人は、講師が言われたように、勉強が好きだったわけではなく、姉や妹よりもお母さんに自分を見て貰いたくて、頑張っていた結果だったという事も分かりました。
娘は晴れ晴れとして、旅立ちました。それから、間もなく出会った人と結婚しました。そして、ハワイで牧師夫人となりました。
熱心なクリスチャンである婦人は、娘の誰かが教会の献身者になる事をずっと祈っていました。神は、お母さんのその願いも叶えて下さいました。
イスラエルがエジプトの地を出て、荒野で過ごした四十年間、神は、天からマナ(コエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた煎餅のようなパン)を降らせて、イスラエルを養われました。
神はいわれました。「各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。」
ある者は多く、ある者は少なく集めました。しかし、多く集めた者も余る事はなく、少なく集めた者も足りない事はありませんでした。各自は自分の食べる分だけ集めたのです。
神は、その人の必要な分だけ与える方のようです。乏しい事もなく、無駄にする事もありません。その人に十分なものを与えられます。
人は均等にする事で、ある者はお腹を空かせ、ある者は腐らせて廃棄してしまいます。
人の言う平等は、すべての人を幸せにする事が出来ません。
神はひとりひとりの必要を知る創造主です。一人一人に合ったものを与え、すべての人を幸せにし、喜ばせる事の出来るお方です。