ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの弟子は専門家ではなかった


  イエスは、父のいわれるままに語り行う、従順なしもべでした。

  イエスは声を掛けて、十二人の弟子を集められました。彼らは、ガリラヤ地方の漁師であったり、ユダヤ人から嫌われている取税人(ローマのために、ユダヤ人から税を取り立てる者)であったり、ユダヤ人から尊ばれない人達でした。

  彼らは無学で、飲み込みの悪い人達でした。イエスは、「まだ、わからないのですか」と彼らを叱責しておられます。

  イエスのもとには、律法学者やパリサイ人等、聖書に精通した人達が来ては、色んな質問をしました。彼らはイエスと議論するほどに、知識を持つ人でした。また、ユダヤ人を教える教師でありました。しかし、彼らはイエスの弟子ではありませんでした。

  十二人の弟子は、聖書の専門家ではなく、他のユダヤ人と同様、教えて貰う立場の人でした。

  
  イエスは、別の七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、二人ずつ先に遣わされました。

  彼らは、喜んで帰って来て言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私達に服従します。」

  イエスはいわれました。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものはありません。

  だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されている事を喜びなさい。」

  ちょうどこの時、イエスは、聖霊によって喜びに溢れていわれました。

  「天地の主であられる父よ。あなたを褒めたたえます。これらの事を、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現して下さいました。
  そうです。父よ。これが御心にかなった事でした。」

  イエスの弟子に知識は必要なかったのです。ただ、イエスに聞き、イエスに従順である事、それが唯一の知識であり、最大の知恵だったのです。

  律法学者達は、弟子達よりも知識がありました。ユダヤ人を教える事も出来ました。しかし、その知識が邪魔をして、イエスのことばを素直に受け取る事が出来ませんでした。

  幼子のように、そのまま信じるのではなく、色々理屈をつけて、詮索しました。イエスのことばを鵜呑みにするのは、知識の無い者がする事だと思ったのでしょうか。

  それとも、レビ族から出ていない、ナザレの田舎者のイエス、どこで学んでもいない大工の子に、何の権威があるというのか、とでも思ったのでしょうか。

  彼らは、イエスの教えに真っ向から対立しました。イエスが、どこから来たのか知らなかったからです。イエスが神から遣わされた者である事を認める事は出来ません。

  弟子達は、イエスの教えに耳を傾け、喜んで聞きました。知識のない彼らは、疑う事もなく純粋に信じ、幼子のように受け入れてイエスに従いました。知識はないけれども、信仰は神とともにあり、心は主に向いていました。

  父にいわれるまま集めた弟子でしたが、この時、イエスは、父の御心がわかったようです。賢い者や知恵ある者には隠して、幼子達に現わされた父を褒めたたえました。


  神は、知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。

  自分は目が見えていると自負し心高ぶっている者を、無い者のようにするために、盲目で無に等しい者を選ばれたのです。神の前で誰をも誇らせないためです。

  ガリラヤ地方出身の名もなきイエス集団を、大都会の賢い祭司等律法の専門家達が敬意をもって迎える事は、なんと難しい事だったでしょう。

  神にへりくだっていなければ、到底無理な事と思われます。

  イエスは、イエスのもとにやって来た祭司長、律法学者、長老達にいわれました。

  「あなたがたは、『家を建てる者達の見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私達には、不思議なことである』という聖書のことばを読んだことがないのですか。」

  神の民を建て上げるはずの聖書の専門家が、神から遣わされたイエスがキリストである事を信じる事が出来ませんでした。

  神に仕えて来た専門家の人々、先生と呼ばれる人々の目は閉ざされていました。

  無学ではあるけど、幼子のようにイエスを信頼し、イエスに聞き、イエスに従う者達に神は、神の国の働きを与えられました。