教会に来た婦人が、賛美の中で、美しい英語で霊歌を歌われました。
初めは霊歌だとは分かりませんでした。英語の出来る人だと思いました。しかし、聞いてみると、その婦人は英語が全くできないとの事でした。
聖霊のバプテスマのしるしとして受けた異言が、彼女の場合、英語だったという事でした。
異言にこんなにはっきりとした言語のものがあるのだ、と驚きました。私も欲しいと思いました。
夏休みになり、教会キャンプが持たれます。様々な教会合同のキャンプは交流の場でもあり、皆が楽しみな行事です。中高生キャンプと小学生キャンプは同期間、別々の場所で開催されます。
神学生の私に中高生キャンプの奉仕が割り当てられました。関西でのキャンプを心待ちにしていました。すると、定員オーバーでベッドに空きが無くなったので、小学生キャンプの奉仕に変更という事になりました。
福井でのキャンプに心がシフトし、楽しみにしていました。ところが、直前に定員オーバーではずされました。牧師館でおばあちゃんが一人で留守番をするので、私は教会の留守番をする事になりました。
その夜の事でした。今頃、キャンプはどうかな。いいな。私も行きたかった。と落ち込んでいた私は、主に祈りました。「主よ。キャンプに参加した人の祝福を教会で留守番している私にも与えて下さい。キャンプに行くよりも良かったと思わせて下さい」と切に祈りました。
会堂の本棚にある『朝の九時』という本に目が留まりました。その本を手に取り、
一人畳の部屋で読みました。聖霊のバプテスマのお話です。すでに、聖霊のバプテスマは受けていましたが、英語の異言を聞いてから、はっきりとした言語の異言が欲しいと思うようになっていました。
本に書いてあるまま、「ハレルヤ。ハレルヤ」と繰り返しつぶやきました。教会には誰もいません。私一人です。周囲は住宅のない環境です。遠慮せずに、部屋中歩き回って、天に手を伸べて「ハレルヤ。」と叫び続けました。楽しくなって何十分も続けました。
ちょっと疲れて、腰をおろしました。静かに黙想しました。外国人の人の唇が幾つも見えました。(そうだ。外国人は話す時、日本人よりも唇を大きく動かすではないか)と思いつき、私も大きく唇を動かしながら、異言を語りました。
しばらくすると、言語の異言が私の口から出て来たのです。嬉しい驚きとともに、未開国の踊りの時のような異言に困りました。主に祈りました。「これでは、恥ずかしいです。フランス語のような綺麗な言語の異言にして下さい。」
しばらくして、どこの国の言語だか分からないけど、巻き舌の言葉が出て来ました。時々、「ハレルヤ」という言葉も混じりますので、何か神を讃えているようです。
祈るのを止めたら、もう出てこないのでは、と心配して1,2時間その異言で祈り続けました。疲れて止めた後、もう一度確認したら、ちゃんとその異言が出て来ました。「明日になっても、ちゃんと出ますように」と祈って眠りました。
朝目覚めると、最初に異言で祈って見ました。ちゃんと出て来ました。喜びでいっぱいになりました。キャンプに参加するよりも、生涯の思い出と財産が貰えた喜びに溢れたので、これで良かったと思いました。
キャンプに参加するよりも恵まれたのではないか、と有頂天になっていました。聖書を開いたら、エペソ書2:8,9が、目に留まりました。
『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』
神の前に正されました。これは、私の誉れではない。神の恵みなんだ。私の行いから出た事ではなく、神が賜ったものであり、誇るのは自分ではなく、神ご自身を誇るのだ、と悟らされました。
人が高ぶると、神の恵みが棘になります。へりくだるならば、神の栄光が現されるのです。神に、このみことばを感謝しました。高ぶらないように、と神は恵みの後で、その人を心配しておられるようです。
神学校の兄弟姉妹の間で、合言葉のようなものがありました。
”恥は我がもの、栄光は主のもの。“
誇るのは、主だけなんだ。私の良いところは、主キリストを信じている事だけなんだと思いました。