ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

青銅のへびとイエスの十字架


  モーセが毒蛇による死から民を救い出すために造り、旗ざおに掲げた青銅の蛇を、神の救いの象徴として、イスラエルはこれを拝み、香を焚いていました。

  救って下さったのは神なのですが、青銅の蛇を神のご神体としたのは、イスラエルでした。目に見えない神を確認するためには、人が理解できて納得できる、目に見える形である事が必要なようです。

  霊の目と耳と思いが閉じられている肉で生きる人間は、霊の神を知るのに、肉の方法で知ろうとしました。それで、モーセの作った青銅の蛇は、偶像になりました。

  目の前の偶像に心を向けるイスラエルの思いは、自分達の思いに覆いをかけ、霊である神をわからなくさせています。彼らは、神でないものを神と信じて拝んで、神を怒らせました。

  イスラエルは、神と契約を結んでいない異邦人のようになってしまいました。全能の神に仕える民の罪は、異邦人よりも重くさばかれます。


  神は、預言者イザヤにいわれました。


  「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、癒されることの無いために。」

  イスラエルは七百年くらいの間、高き所でモーセの作った青銅の蛇に香を焚いていました。ユダの王ヒゼキヤは、イスラエルの神、主に信頼する人でした。ヒゼキヤ王は、高き所を取り除き、青銅の蛇を打ち砕きました。(聖書 第二列王記18:4)

  
  イエスが人類の罪の身代わりとなって、十字架につけられました。この十字架の主イエスが、人類の魂を死の滅びから救ってくださいました。

  このイエスを救い主と信じる者達の中で、これを形にしてこの救いのわざを覚えて神に感謝しようと、彼らの信仰でキリストが十字架につけられた像を作り、拝みました。

  信仰から始まったことであっても、それは霊なる神を侮る偶像となりました。


  終わりの時に、神とキリストに敵対する者、世界中の人々を惑わす悪魔の力を持つ強い指導者が、神が立てたふたりの神の証人を殺し、その死体を大通りでさらします。

  このふたりが預言している三年半の期間に、彼らは、雨を降らないように天を閉じる力を持ち、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ力を持って、神に仕えます。

  黙示録11:8,9に、その事が書かれています。「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。諸々の民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に納めることを許さない。」

  彼らの語る神の預言は、人々が聞きたくないと思うものでした。彼らは、神に忠実なふたりを憎みました。それで、人々は、ふたりの死体を見て、もう脅かす者がいなくなったという解放感と地上からふたりを消し去った勝利に歓喜しました。

  ふたりの死体は、悪魔の勝利の象徴であり、死体を眺める事で、神のことばを砕き、神を滅ぼし、神の支配から解放された事を味わったのです。

  しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が彼らに入り、彼らは自分の足で立ち上がり、「ここに上れ」との天の神の声によって、彼らは雲に乗って天に上るのでした。

  大通りにさらされていた、ふたりの死体は神の息で復活し、天に上るのです。十字架につけられた彼らの主キリストも、墓から復活し、天に上られました。

  キリストは十字架につけられたままでは、ありません。死から復活した勝利者です。

  十字架につけたままのイエスを眺める事は、神の信仰ではありません。それは、イエスの死を喜び楽しむ、悪魔のわざです。イエスを復活させず、死に縛っておきたい、悪魔のわざです。

  復活して霊のからだとなられたキリスト・イエスを、何故、十字架につけたまま、肉体のからだに閉じ込めておくのでしょう。

  イエスは命じられました。「わたしを覚えて、わたしの肉と血を記念としなさい。」キリストの十字架の贖いのわざを記念して、パンと葡萄酒の聖餐を命じられたのです。

  十字架のわざの記念に対する神の権威は、十字架の偶像にはありません。イエスが命じられた聖餐にあるのです。

  十字架につけられた子羊イエスの肉体といのちは、神に献げられたものです。天上に上った献げ物です。それなのに、何故、地に留めて置くのでしょうか。神のもとに引き上げられなければ、イエスの肉体もいのちも聖別されません。

  イエスを地に引き留める行為です。それは、イエスを遣わされた方、キリストの父なる神を知らないからです。キリストは父のみもとに帰られたのです。

  十字架につけられたイエスの肉体といのちは、神に献げられたものです。神に聖別された肉と血として、聖餐でイエスの肉(パン)と血(葡萄酒)を頂き、キリストの復活のいのちを頂いて、聖霊による更新により、世の汚れから洗われるのです。


  十字架のイエスは、神の子羊イエスです。墓から復活されたキリストは、神の子羊主キリスト・イエスです。復活の主を証する者は、主キリストの勝利と御救いの完成を証する者です。

  十字架の主を信じることは、罪が赦され滅びの悩みから救われる事です。
  復活の主を信じることは、御霊が与えられる事です。
  御霊が与えられることは、永遠のいのちを受ける事です。

  復活のキリストが生んだ人々とともに、御霊がおられ、聖霊が働かれるのです。