ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒行伝は聖霊行伝

 

  『使徒行伝』の講義の講師、ノルウェー人のラッペ先生の口癖でした。「使徒行伝は聖霊行伝。」

 

  イエスが昇天した後で、弟子達に聖霊が下って、使徒が復活のキリストを証して、宣教しました。この使徒の働きを記録した書簡の学びでした。

 

  イエスは語っておられました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

  聖霊が下られたのは、キリスト信者の信仰を守り育てるためだけではなくて、宣教の力を与えるためだったのですね。

 

  使徒達は、神に与えられた御霊の力によって、大胆に語り、病人を癒し悪霊を追い出しました。

 

  イエスがいわれた通りでした。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりも更に大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」つまり、聖霊が地上に来られるから大きなわざが行われるというのです。

 

  使徒達は、聖霊に満たされて、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けました。信者は次々に牢に入れられました。殉教者も起こりました。しかし、宣教し続けました。それで、多くの人が信仰に入りました。

 

  使徒の働きの記述にこのような出来事があります。

 

  主の使いがピリポに向かって言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこで、ピリポは出かけた。

 

  そこには、エルサレムの礼拝から帰る途中の宦官のエチオピヤ人が馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

 

  御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」といわれた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。

 

  すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗って一緒に座るように、ピリポに頼んだ。

 

  彼が読んでいた聖書の箇所は、イザヤの書53章でした。「屠り場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ子羊のように、彼は口を開かなかった。彼は卑しめられ、その裁きも取り上げられた。かれの時代のことを、誰が話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」

 

  宦官はピリポに向かって言った。「預言者イザヤは誰について、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、誰かほかの人についてですか。」

 

  ピリポはこの聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

 

  道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」

 

  そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

 

  水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

 

  主の使いがピリポに言った。そこで、彼は出掛けた。御霊がピリポに言った。ピリポがそれに従うと、宦官がイエスを受け入れた。主の霊がピリポを連れ去られた。とあります。

 

  今の時代の人達は、これをどう解釈するのでしょうか。

 

  パウロの宣教の場面でも、「彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギア・ガラテヤの地方を通った。こうして、ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤの方に行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。とあります。

 

  使徒達の働きは、彼らから出た働きではなくて、御霊が語り、御霊が導く、主の霊による働きでした。彼らは、それに従っただけでした。

 

  使徒の働きですが、実は、聖霊の働きの記録なのです。

 

  聖霊の働きには無駄がありません。必要な所に使徒を導き、イエスを求める人と出会わされるのです。

 

  伝道する中で、伝える人を間違えると、罵られたり、嘲笑われたり、話した事で悪く言い触らされたり、後々面倒なことになって、嫌な思いをして、それが積み重なって、もう伝道を諦めてしまいます。

 

  使徒行伝のように、御霊に導かれた伝道をするなら、求める人々に届けられて、大勢の人が信仰に入ることが出来るのに、と思ってしまいます。

 

  実を結ばない働きはむなしいものです。何とか、自分達を鼓舞します。一人だったらくじけてしまいます。

 

  「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる。」しかし、信じたことの無い方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことの無い方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞いたことができるでしょう。

 

  この聖句のあとには、遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。と続きます。

 

  自分の力で行くと、伝えることは伝えても、結果は難しいものです。使徒行伝のように、聖霊の導きに従うことが出来るならば、どんなにいいだろうか、と思います。

 

  そして、最も重要なことは、今も聖霊が地上におられるということです。聖霊を信じ、御霊を求めるならば、使徒達と同じわざが起こるということです。御霊は、同じ御霊です。色あせてはおられません。

 

  現代人の霊の耳が塞がれ、霊の目が塞がれているのは、不信仰のためです。自分を見て、落胆します。しかし、働かれるのは御霊です。御霊には無限の力があるのです。

 

  主は語られます。御霊は導かれます。分からないのは、そんな事があるはずは無いと信じているから、その信仰通りになるのです。

 

  聖霊とともに歩んだ使徒達のように、神の導きを知って歩めたらどんなにいいか、と思います。