ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠の宝を持つ民

 

  「いのち」は永遠のものです。そして、魂も永遠に存在するものです。記憶は残り、感情や知性も残ります。朽ちて滅びるのは、肉体だけです。

 

  永遠に存在する魂は、肉体を脱いだ後、どこへ行くのでしょう。それは、この地上で肉体を持って生きている間に、本人が選択するのです。

 

  生まれつきのままの人間として生きる者は、すべて行先が一緒です。努力して称賛される人生を歩む人も、高学歴の人も、高収入の人も、人の羨む容姿の人も、有名人も、地位のある人も、宗教に熱心な人も、粗野な人も、怠惰な人も、卑しい人も、生まれて生きて死んだ人すべては、どのように生きても、行き着く場所は同じです。

 

  人生の歩みの中で、つまづいて嘆いてボロボロになった先に、救い主に出会い、イエス・キリストに自分の人生を明け渡し、キリストの御霊と共に歩む人は、御霊に導かれ、生まれつきのままの人間としてこの世を生きた人々が辿り着くことの無い神の御国に入るのです。

 

  人の目に羨ましく見えていた人々、人々の関心を集め、この世を謳歌し、喜び楽しんでいたこの世の成功者達が、この世の君(悪魔)に仕えて自由に振る舞い、神の懐に入らず、この世を愛して、永遠に燃える火に辿り着くのです。

 

  苦しみ、痛み、悲しみに出会う人は、幸いです。失敗の体験は宝です。そこには、この世の広い一本道から外れる細くて狭い道が用意されています。神を求める歩みです。

 

  その道は、この世の主流の道ではありません。この世の流れとは次元の違う道です。生まれつきの人間の思考や価値観とは相容れない、教えられたことの無い道、知らなかった道です。

 

  この世に希望を失った人、この世で苦しんでいる人は、逃れの道に逃げ込みます。はじめは不安でいっぱいです。この道に進むには、勇気がいります。

 

  世に未練のある人は、皆と一緒である方が安心だと言って、不思議な狭い道の歩みを止め、広い道に引き返します。

 

  世に失望している人は、細い道をしばらく進み、この先に何か自分の居場所を見出せないと感じるとすぐに、細い道の岐路に戻ってたたずみます。この世の道に疲れ果ててはいるけれど、細い道を歩む勇気もありません。

 

  勇気を持って進む人は、進んでいく間に、家族や親しい人との摩擦、細い道を行くことで始まる迫害に翻弄され、選択を迫られます。細い道は、世の憎む道であり、世に蔑まれる、或いは嘲られる道でもあるからです。

 

  先に細い道を歩んでいる人々は、目に見えない神を信じ、神の愛を讃え、世では味わえない安らぎを味わっています。

 

  自分も神を求め始めます。ここに、何か自分の求めるものがあると感じるからです。神を知り、神を信じ、神の愛に守られ、自分の人生に神を迎え、神の懐に入っていきます。

 

  この細い道は、永遠の住まいに通じる道です。彼らは、神の御国に辿り着く道を歩んでいるのです。

 

  この世の主流の道を外れ、この世の敗者のように見えるこの道が、実は、勝利者の道なのです。

 

  人々は、この世の生き方を持って人生の勝利者、敗者を決めます。死ぬ時の環境や状態で、その人の人生の良し悪しを判断します。この世の基準は、広い道で決まります。広い道をどんなに雄々しく、たくましく、しなやかに歩んだかを評価します。

 

  しかし、死後の裁きの権威を持つ神は、異なる評価をされます。人の標準と神の基準は違うからです。

 

  神は、神によって生まれた者が、世に勝つ者だといわれます。細い道を歩んだ人達、この世の誉れではなく、神が地上に遣わされた救い主キリストを信じる信仰を持つ人が世に勝つというのです。

 

  細い道に入り、細い道に歩むという信仰を持ち、信仰を持ち続けることは、世に打ち勝った勝利の証なのです。人を恐れ、世に迎合して信仰を失う人は、広い道へと帰って行きます。彼らは、この世の人として死んでいきます。

 

  この世と世の人達は、死後、この世の支配者である悪魔と共に永遠の火で焼かれます。これは、永遠です。魂は永遠に生きるからです。彼らは悪魔の子、或いは悪魔の奴隷として、神が悪魔に定めた刑罰の場所に入るのです。

 

  細い道を歩んだ人達は、死後、神の住まいである神の御国に入り、神の子とされます。悪魔の策略に勝利した者は、世に勝つ者です。

 

  イエスの弟子のヨハネは言いました。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 

  キリスト・イエスを信じる者、イエスを主とする者に、永遠のいのちが与えられるのです。その価値が分かれば、どんな金持ちも全財産を売って買い求めたいと思う、永遠の宝です。

 

  この世の成功者は、手に入れた物をすべてこの世に残して、死んでいきます。何も持っていけません。そして、自分自身の魂をも失います。魂のために、死後の備えをしていなかったからです。

 

  しかし、この世に打ち勝った信仰の勝利者は、永遠の宝を持っています。永遠のいのちです。彼らは、この世を永遠のいのちで生きるのです。イエスを愛し、神を賛美し、御霊と共に歩みます。死んで、肉体を失うと、永遠のいのちで復活し、霊のからだが与えられるのです。

 

  永遠のいのちは、闇に輝きます。人が夜空に輝く星を見て嬉しくなるように、神は、地上に、永遠のいのちの輝きを見て喜ばれるのです。

 

  神はいつも、永遠の宝を持つ民に目を留めておられます。永遠の宝は、神に求める者に与えられます。永遠の宝を受け取って、永遠に朽ちることの無い、真の宝を持つ民に加わるように、神は望んでおられます。