ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の愛がなければ

 

  聖書のコリント人への手紙第一13:1~3には、こう書かれています。

 

  「たとい、私が人の異言や、み使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましい銅鑼(どら)や、うるさいシンバルと同じです。

  また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

  また、たとい私がもっている物の全部を貧しい人達に分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

  異言を話しても、また、預言の賜物が与えられ、あらゆる神の奥義と知識に通じ、神のわざを行う完全な信仰を持っていても、その人のうちに、神の愛がないなら、何の値打ちもない、というのです。

 

  ある人々は、神の力のわざを行うことが神のしもべの証だ、と思うかも知れません。神がともにおられるしるしだ、と思うかも知れません。異言や預言、神の奥義と知識、人を驚かすような大きな奇跡を行う信仰は、人々にこれは神のわざだ、と驚嘆させるかも知れません。

 

  しかし、聖書はいいます。「愛がなければ何の値打ちもない。」

 

  神のわざは、人を驚嘆させるためでしょうか。神を恐れさせるためでしょうか。また、神のわざを行う人を、神の人とするためでしょうか。神に選ばれ、神に油注がれた人の働きであった旧約時代には、そういう場面もありましたが、御霊が与えられている新約の時代では、イエスへの愛、神への愛が重要となります。

 

  賜物は神がひとりひとりに与えられたものであり、神の福音に仕えるため、聖徒達を整え、キリストのからだを建て上げるために与えられているのであって、誰も誇ることは出来ません。

 

  賜物は人の手柄ではありません。「私達は役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです、と言いなさい」と、主はいわれます。

 

  真理への愛、キリストを愛する愛がなければ、また、主が共におられなければ、賜物の働きであっても、それは人を建て上げません。人々がわざに驚いても、神にとっては値打ちのないものです。何も生み出す力はありません。無精卵のようです。そこに、御霊がおられないからです。

 

  人がもし、持ち物を貧しい人に全部施しても、自分の命を献げ、犠牲を払ったとしても、神を愛する愛がないならば、神から出たことではないのならば、それは、この世の栄誉で終わります。神への愛があるならば、施しは豊かに祝福されて、貧しい人の心は神に向かいます。施した人は、神から何倍もの祝福が返されます。神がともにおられるからです。

 

  神の愛を持ち、神に従って、命を献げるならば、一粒の麦の死は、多くの実を結ぶでしょう。彼は、天で多くの実りを受けるでしょう。

 

  神の愛を持ち、神に従って、犠牲を払うなら、神の喜びに満ち溢れることでしょう。

 

  賜物の所有者は、主です。しかし、賜物は御霊によらなくても発揮されます。世の人々が、キリストの神を信じていなくても才能豊かであるのと同じような現象です。

 

  しかし、キリストを信じる人は、世の人と同じであってはなりません。自分が主人ではなく、キリストが私達の主人です。主人のことばによってされなければ、世の人と同じになってしまいます。

 

  イエスも父に従って、父のことばを受けて語り、父に従ってわざをされています。聖書の神は、ことばの神です。「光よ。あれ。」神のことばによって、被造物は造られました。

 

  神を敬う者は、神のことばにへりくだらなければなりません。神のことばが初めにあるのです。神を愛する者は、神に聞く者です。神に従う者です。

 

  神の愛がなければ、神から出たことでなければ、どんな犠牲も神には覚えられず、神の国にとって、その人自身のいのちにとっても何の役にも立ちません。

 

  神の愛がなければ、神から出たことでなければ、御霊の働きではありません。どんなにすぐれた働きでも、そこに、神の栄光は無いからです。

 

  神の愛は、信仰です。ノアもアブラハムも信仰によって義と認められ、神の恩寵を受けました。信仰は聞くことから始まり、聞くことはみことばによるのです。

 

  「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と、パウロはいいます。

 

  愛が信仰の要です。信仰は愛によって結ばれるのです。愛によって、見分け、人々の益となる言葉を御霊によって与えられるのです。

 

  賜物の土台に、働きの基礎に、愛を求めましょう。追い求めなさい、とありますから、何よりも熱心に求めるように、ということです。愛を求めるとは、神御自身を求めることです。

 

  愛がなければ、時間と労働とわざ、神の働きと思ってやっている事すべてが、神に覚えられません。神は、何の値打ちもない、といわれます。愛がなければ、どんな善行をしても、永遠のいのちのために何の役にも立たないのです。

 

  神の愛がなければ、むなしいものです。

 

  努力をするならば、神の役に立ち、神に覚えられるように、永遠に価値のあることのために力を使いましょう。

 

  神を愛すること、イエスを愛すること、御霊とともにいること、神とともにあることを追い求めましょう。

 

  神を愛の中心に置くならば、イエスのことばを守り、御霊に教えられ、御霊の導きに従う者と変えられて行きます。神への信頼と愛が増し加わり、霊の人として成長していきます。

 

  神の愛があるから、天の喜びがあるのです。神の愛があるから、すべてが益とされるのです。

 

  神の愛があると、神の栄光が喜びとなるのです。