ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

罪を口で言い表す

 

  「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめて下さいます。」(第一ヨハネ1:9)

 

  罪を犯した時、罪を赦していただくためには、まず、自分の罪を神に言い表さなければなりません。

 

  子どもが何かを壊した場合、「お母さん、僕を赦してください。」と言っても、親は、「何をしたの?」と聞きます。何をしたのか言わないで、「僕を赦して下さい」と言い続けても、埒(らち)があきません。「お皿を割っちゃった。」と言えば、本題に入る事が出来ます。

 

  「神様、私の罪を赦して下さい。」ではなく、具体的に言い表す事です。「私は、○○の罪を犯しました。」神は、自分で言い表した罪を赦すと言っておられるからです。

 

  詩編で、ダビデはこのように言っています。

 

  「私が自分の罪を言い表さずに黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨骨は疲れ果てました。それは、あなたの御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の力は、夏の日照りによって枯れるように、枯れ果てました。

 

  私は、自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の罪を主に告白しよう。』その時、あなたは私の犯した罪を赦されました。」

 

  神は、言い表す罪を赦して下さるのです。神は、肉の親とは違います。自分の感情で怒ったりはされません。「何やってるんだ!」とか、「おまえはいつもそうだ!」とか、罵声をあげたり、ガミガミと怒鳴り立てる方ではありません。

 

  神は人間ではありません。塵から造った人間の弱さをよく知る創造者です。人間をよく知っておられます。人間は完全なものではありません。

 

  肉の親は、自分が不完全なことを棚に置いて、子どもには、高いものを要求しがちです。まるで、自分の子ども時代は落ち度無く成長して来たかのようです。

 

  神は、御自身が全知全能、完全な方であるにも関わらず、人間に完全を要求されません。完全な人は、神の御子イエスただひとりです。神が望まれるのは、イエスの義のうちに留まりなさい、という事です。

 

  自分で正しいことを行う努力をするのではなくて、十字架で流されたイエスの血潮で、すべての罪を赦すから、イエスを信じて、イエスの御霊とともに歩みなさい、と主はいわれます。イエスの血潮で義とされた者が、神が正しいとされる者なのです。

 

  ペテロがイエスのみもとに来て、尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 

  イエスはいわれました。「七度まで、などとはわたしはいいません。七度を七十倍するまでといいます。」

 

  赦し続けなさい、という事です。人間には難しい注文です。自分の事を棚に上げて、他人のした事には心がざわつく肉の私達に、イエスは赦し続けよ、といわれたのです。

 

  私達に赦すことを命じられたからには、神は、人のどんな罪でも赦すと決めておられます。だから、自分の罪を言い表し、罪を手放しなさい、といわれます。

 

  罪を隠して、自分の犯した事に直面せずに、神の罰から逃れようとするならば、心は闇に覆われます。やがて、逃げ場を失います。神は、罰則を与えるために、罪を告白せよ、といっておられるのでしょうか。いいえ、かえって、罪の縄目から自由にし、心と体を病むほどの重圧から解放し、癒すためなのです。

 

  罪を口で言い表すと、御霊が働かれます。御霊はいつも執り成しておられるからです。悔いる心が与えられます。環境が悪い、相手が悪かったんだ、と周囲や人のせいにしてしていた、自分を守る思いから、誰のせいでも無く、自分自身の中に罪の根がある事に気づくことになります。

 

  罪に伴う罰に耐え切れず、罰を免れようとしていた心が、罰を見るのではなく、自分の犯した罪と、犯した自分自身を見るようになります。

 

  自分の罪が理解できると、罰を受けるのは当然の事だ、と償いの心が芽生えます。こうなると、本当の悔い改めが始まります。

 

  神にへりくだる心が自分のうちに置かれ、もはや罪を認めようとしなかった自分ではなくなります。神が形づくられた新しい心で、神の御前に出ます。

 

  以前のような、後ろめたい気持ちや神を恐れる心もありません。神が赦して下さった事がわかるからです。

 

  キリストを信じた後でも、罪は犯します。死ぬまで罪と戦い続けます。しかし、希望のある戦いです。私達の神は、罪を罪のまま残される方ではないのです。イエスが右も左もわきまえない愚かな人間の罪の身代わりに、すでにご自身を十字架につけ、罪の呪いを処罰して下さったからです。

 

  希望は、「罪を言い表すならば赦される」と神がいっておられることです。神の赦しはそれで終わりません。神は、すべての悪から私達を救い出し、きよめて下さるのです。罪を赦すだけではなく、まるで罪を犯さなかったかのように正しい人のようにして、天の御国に入るのにふさわしい者として下さるのです。

 

  もし、自分には罪が無いと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理は私達のうちにありません。罪が無いならば、御子イエスの十字架の死は何のためだったのでしょう。もし、私達は罪を犯したことが無いと言うなら、神を偽り者とするのです。その場合、神のことばは私達のうちにありません。

 

  神のことばが私達のうちに留まっているなら、私達は悪い者に打ち勝つのです。イエスを神の御子と信じる者は、世に勝つ者です。

 

  世に勝つとはどういう事でしょう。悪魔に飼われていた私達が神に買い取られて、天の御国に帰るという事です。もはや、世はそれを引き留める事は出来ません。私達の信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利なのです。

 

  罪を口で言い表す事は、私達の平安のためなのです。