ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

クリスマスはイエスの降誕日ではなかった!?

 

  かつて、日本では、クリスマスがイエス・キリストの降誕日だとは知られてはいませんでした。子どもにとって、サンタクロースがプレゼントを届けてくれる待ち遠しいクリスマスだったのです。

 

  しかし、いつ頃からかクリスマスはキリスト教でイエスの降誕を祝う日、と認識されるようになりました。

 

  教会で『クリスマスの考察』という翻訳本を読むように、と勧められていました。

12月25日は、イエスの生まれた日では無い、と書いてあります。

 

  本の内容の記憶はおぼろげですが、教会の歴史の中で、異教の女神の祭りの日にイエスの降誕日として祝ったのが始まりのようです。

 

  キリストの教会の中に、異教の風習を取り入れたようです。だから、クリスマスは異教の祭りだと言うのです。

 

  牧師の主張は、聖書の中に、イエスの降誕を祝う人の記述はありますが、イエスの誕生日を祝った記録がない。だから、イエスの降誕を祝うクリスマスは、聖書的では無い。聖書的で無いものは、取り除いていきましょう。神が認められないことをキリストのからだの教会ですることは無い。それなので、教会のクリスマス行事はしません。世の人々のための伝道集会はしますが、教会でイエスの降誕を記念する事は廃止します、との事でした。

 

  クリスマスの聖歌は、安らかで希望と喜びを与えてくれます。牧師自身もクリスマスの賛美が好きなので、教会で賛美しないのは寂しいですが、賛美したい人は、各自家でしてください、との事でした。

 

  本の中には、イエスの降誕は12月ではなくて、9月か10月と思われるとの事でした。羊飼いが野宿している時期だから、寒い12月ではないだろう、との事です。

 

  モーセから神と契約を結ぶ民族となったイスラエル民族。神の律法(十戒)が与えられ、掟と定めとを守るように神に仕えるレビ族を祭司として、神の遣わされるメシアを待ち望むユダヤ民族。神はユダヤ人に、過越しの祭り及び種を入れないパンの祭りと、七週の祭り、仮庵の祭りを記念して、代々守るように、子孫に伝えるように命じられています。

 

  イエスは、ユダヤ人の王として、イスラエルに生まれました。神が、ユダヤ人の王として遣わされた方が、イスラエルの掟から離れた存在であるとは思われません。

 

  イエスが十字架につけられたのは、過越しの祭りの日でした。神殿で生贄の羊が献げられる日に、生贄の神の子羊として十字架につけられたのです。神が用意されたこの真の神の子羊は、毎年献げられる罪のための生贄とは違い、一度きりで永遠の贖いを成し遂げられたのです。それで、生贄を献げなくてもよくなったのです。

 

  神の子羊イエスの血は、すべての人の罪を贖いました。それで、キリストの血潮を受ける人は、罪が贖われて神の赦しを受けるのです。

 

  キリストの教会では、十字架で裂かれた子羊の肉と、十字架で流されたイエスの血を記念して、パンと葡萄酒の聖餐のときを持ちます。そして、キリストの復活を記念して、イースターを祝います。イエスが墓から甦られたのは、日曜日でした。それで、教会では日曜日に礼拝します。

 

 

  神の子羊イエスは、聖霊のバプテスマを授ける方です。

 

  イエスから「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と命じられた弟子達は、皆が一つ所に集まっていました。すると、五旬節に、エルサレムで聖霊が注がれ、皆が聖霊に満たされたのです。

 

  五旬節はモーセがシナイ山で十戒を受け取った日とされ、七週の祭りを祝います。このユダヤ人を律法の民とした五旬節に、ユダヤ人の王イエスは、新しい律法の聖霊を注がれました。イエス・キリストの民に真理の御霊を与え、石の板では無くて、生ける神の御霊によって心に律法を書かれました。

 

  キリストの教会では、聖霊降臨の記念として、ペンテコステを祝います。

 

 

  ユダヤ人が過越しを記念して「種を入れないパンの祭り」をしている時期に、キリスト信者は、イエスが死と火の池に勝利して復活された事を記念してイースターを祝います。キリストの復活は、神がキリスト信者に最後の裁きを過越し、永遠のいのちと復活のからだを与える事の象徴です。

 

  ユダヤ人が、石の板に書かれた律法が与えられた事を記念して五旬節を祝っている日に、キリスト信者は、心に律法を記す真理の御霊が与えられた事を記念してペンテコステを祝います。

 

  神はイスラエルの祭りに事を起こされるようです。その事から考えると、イエスの降誕は、ユダヤの祭りの仮庵の祭りの時期の9月頃ではないかと推測されます。私は、ラッパの祭りではないのか、と思います。

 

  ところで、イスラエルのベツレヘムにある教会だったか、ナザレの教会だったか、教会の入り口に宙に浮かぶような恰好で大きな天使の像が取り付けられた教会の外から、このように天使が現れたのだろうかと想像しつつ、イエス様の降誕は天使によって祝福されていたのだ、と感動して天使の像を眺めていました。

 

  救い主が、この世に生まれて下さったことを感謝していると、神が語られました。

 

  「救い主が生まれた事ではなく、救いが完成した事を喜びなさい。」

 

  ああ、そうだった。主の十字架のわざを感謝するのだ。もう、主は甦っておられて、救いは完成しているのだ、と嬉しくなりました。

 

  イエスの墓だったかも知れないとされる、園の墓(岩をくり抜いた場所)の入り口に、「主はここにはおられません。甦られたのです。」との掲示板がありました。

 

  そうです。主は、甦られたのです。

 

  十字架の跡とされる穴を見るために、列に並びました。何か特別な感じがしてわくわくして自分の番を待っていました。とうとう二番目になりました。期待に心が湧く私に主が語りかけました。

 

  「わたしはこのような記念は望んではいない。わたしの望む記念は、パンと葡萄酒の記念と、互いに足を洗い合う事だ。」

 

  互いに足を洗い合う?パンと葡萄酒の記念の聖餐のことは知っているけれども、足を洗うことは聞いたことが無い、と思いました。

 

  しかし、聖書のヨハネの福音書13:14,15に書いてありました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

 

  イエスが教えさとしておられたことが、後に伝わっていなかった事を知りました。また、人が記念と思っている事が、神に受け入れられる事ばかりでは無い事を知りました。

 

  おそらく、使徒達から始まったユダヤ人の教会が、異邦人達の教会になってしまって、失われたのでしょう。そして、異教的なものが入り込んだのでしょう。