ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

肉は破られる

 

  神の子とは、復活のいのちをいただく霊の子であり、永遠のいのちである御霊によって生きる者です。

 

  イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて水から上がられると、聖霊が天から下り、イエスに留まられました。

 

  弟子達は、贖いの子羊として十字架にかかり、血を流して死に、墓に入って三日目に復活のからだで甦り昇天したイエスのことばに従って、エルサレムで共に集まり祈っていた所で、聖霊が注がれたのです。

 

  聖霊は、彼ら一人一人の舌を聖めて、彼ら自身の知性では測り知れない神のことばを授けました。それで、彼らの舌は、この世の肉なる言葉ではなく、神の国の霊の言葉を語りました。

 

  神の国は、永遠に生きる者の国です。朽ちる者は入ることが出来ません。それで、朽ちて行く肉はそこに入ることが出来ません。

 

  御霊によって新しく生まれた神の子を、御霊が、肉の子から霊の子へと意識も生き方も造り変えて行かれます。永遠に生きる者としての歩みが始まるのです。

 

  この世は、肉の子達を産み続けて来ました。肉の子で溢れています。肉の子として生まれた者が、神の御子イエスを信じることによって神に立ち返り、キリストの御霊を受けて、霊の子として新しく生まれるのです。

 

  霊のことは御霊によらなければ、学ぶ事が出来ません。御霊は、みことばによって骨と肉を切り分けていきます。

 

  「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかり事を判別する事が出来ます」と聖書にあります。

 

  それはそれは痛い手術です。しかし、この手術を受けなければ、霊の子になりません。肉の子のままです。肉の子は、神の国に入る事は出来ません。

 

  牧師は言っておられました。「殆どの人は、手術が始まると、その痛みに耐えきれずに、メスで切られたまま、手術台を降りて、神の手から逃げ回っています。傷口は開いたままです。患部を切り取ってもいません。どうか、手術台の上で、まな板の鯉になって下さい。」

 

  神が、霊の健康を妨げる肉の悪い部分を取り除いて、健やかな霊にしようと、御手を入れられるので、その間痛みを伴いますが、我慢してください、とのことでした。

 

  傷口が開いたままでは、良くなるどころか、かえって悪くなってしまいます。患部を取り除いて、傷口を縫い合わせるまでは、忍耐が必要です、とも言っておられました。

 

  クリスチャンになってからの痛みと苦しみは、クリスチャンになる前よりも厳しいものがあります。しかし、この痛みは、永遠の御国に入る希望の喜びを生み出すものなのです。

 

  良いものにするための、聖めのわざなのです。御霊によって新しく生まれた神の子の誰もがくぐり抜ける道です。

 

  霊的なわざなので、人の目には見えません。それなので、人に助けを求めても、理解してもらえないどころか、ひどい時は、中傷の対象になりかねません。ただひたすら神の御前でひれ伏して、苦しみが去るのを持つよりほかありません。

 

  こうして、耐え忍んだ人の霊が行き着く先では、悩みの要因だったものがもはや脅かすもので無くなるという、肉の事柄から解放されている新しい心と、肉の力に勝利した新しい自分に出会うのです。

 

  耐え忍んだ者の報いを受け取ります。自分の努力では得ることの出来ない、霊的次元の喜びが置かれています。理由は分かりませんが、ただ神を喜び、神に感謝する新しい心が自分のうちに造られているのを感じるのです。

 

  感謝をしなければと、自分の心を奮い立たせて、懸命に努力するのに、なかなか身につく事の出来なかった感謝が、自然に呼吸のように、無意識にしている新しい人が自分のうちに生まれたのです。

 

  本当に不思議です。ただ、環境に起こる苦難や非難に抵抗せずに、耐えている間に、御霊が、怒りや憎しみや悲しみや恨みの肉の心を、神を求め、イエスを思う新しい霊の心に造り変えて下さったようです。

 

  一度この体験をすると、次の苦しみにも耐えやすくなります。苦しみの中で、神を呼び、罪を悔い改めた後でも続く苦難にも、自分の身を神に投げ出して神にゆだねるという、新しい道を選ぶ事が出来るようになるのです。

 

  肉の力で生きていた時には無かった選択肢が加えられるのです。このように、御霊は、人の子を形づくり、御父のもとに帰る神の子を整えていかれるのです。

 

  肉のままでは、神の国に入ることが出来ません。御霊は、人を新しく生まれさせて、神の国に入る神の子につくり変えて下さるのです。

 

  神の国が、イエス・キリストを信じる者が辿り着くゴールです。神の国の門に入らせるために、御霊は、一人一人のうちにあって、霊の目を覆い、心を暗くし、罪に引き込む肉を破っていかれるのです。

 

  御霊は、肉を破り、肉欲の性質を変えるために、人の子が神に降参して神の御手の前でまな板の鯉になるまで、忍耐強く働かれます。

 

  一度、まな板の鯉になれば、苦しみの背後には神のあきらめない激しい愛が自分の生涯に向けられているのを知るのです。それで、苦しみの中でも、心を神に向けて神を慕い求めるようになるのです。

 

  肉を破る御霊のわざは、神に憎まれ、退けられているからではありません。神の子として、取り扱って下さっているのです。

 

  聖書には、このように書かれています。

 

  「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

  あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

  あらゆる恵みに満ちた神、即ちあなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」