ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

心を砕く試練

 

  人は成長して行くうちに、多くのものをまとっていきます。多くのものを持つ人ほどそのガードは堅くなります。

 

  地位や名誉、お金や財産等でその人は身を包み、大きな者,豊かな者となります。得て来た多くのものは、その人が歩んできた道の勲章となります。勲章は人の価値を高めます。人々は、彼を成功者と呼びます。

 

  ガードが堅い歩みをしていると、人に弱みが見せられなくなってしまいます。それは、自分自身の守りの体勢でもあり、周囲の人々によってそうされてしまったのかも知れません。

 

  成功を目指す人生を歩んでいなくても、人は殻で自分の柔らかい心を覆い守ります。自尊心が傷つけられたり、失敗したり、孤独であったり、様々な場面でガードを厚くして行きます。

 

  我慢や負けん気、悔しさによって厚くなった殻かも知れません。殻は自我でもあります。自我が強いと他人を寄せ付けません。

 

  自我の殻によって、生身の心を守っています。自我は自分の存在を維持するための守りでもあり、また、他者と隔てる孤独でもあります。自我を失うと、認知能力も弱まり、自分の存在意義を映し出していた風船が手から離れて飛んで行ってしまったかのような絶望的な消失感を味わうのかも知れません。

 

  この世で生きて行くには、自我は、自分を守るために大切なものです。しかし、霊の目を塞ぐ、肉の要塞にもなっています。

 

  神の御国に入るには、この肉の要塞は破られなければなりません。この自我の殻から、柔らかい心を救い出さなくてはならないのです。

 

  柔らかい心を救い出す?殻は柔らかい心を守るものではないのですか。柔らかい心を守っている殻を砕く?殻を砕いたら、どのようにして、柔らかい心を守る事が出来るのでしょうか。

 

  心は、創造主である神が住まうために造られたものです。所有者の創造者のもとに心が帰ると、目に見えている事柄の方が実は実体の無い幻であり、御霊が教える永遠と御霊が見せてくれる霊の事柄、実はこれこそが、永遠に残される実態であることを知るのです。

 

  御霊は、宿った人の心を砕いて行きます。イエスを主とする人の心を砕かれるのです。これは、永遠に生きる者達に造り変えるための神のわざなのです。

 

  心を砕くにふさわしい環境を、その人のために用意されます。その人の心が傷つくまで叩いて、叩いていかれます。もう止めて!と叫ぼうが、おかまいなしです。手術を施す医者のようです。

 

  麻酔はありません。痛みを伴いながらの手術です。だから、理解出来ない人は神を恨むか、神は私を助けてくれないと思って嘆きます。しかし、神は、人を幸せにするために、苦しめます。

 

  御霊のわざが始まると、人は益々殻を堅くします。痛みに耐えられません。これ以上、苦しみが増えたら、死んでしまうのではないのかと思うほど痛みは頂点に達します。

 

  聖書には、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」とあります。

 

  自分が今体験している苦しみは、他の人達も乗り越えて来た体験であると言うのです。他の人々も同じような苦難、もしくはもっと大変な苦難を耐えて生きている、と言うのです。

 

  しかも、耐えることの出来る苦難が自分のために用意されているようなのです。神は、限界ぎりぎりまで心を掴み、砕いておられるようです。だから、目の前に置かれた障害や苦難は、その人の手術に必要な手術用具なのです。

 

  人それぞれ、切開する部位が違います。神は、その人に必要な、的確な手術を施されます。

 

  苦難の中で人は出口どころか、進む方向も見失ってしまいます。しかし、主はいわれます。試練には終わりがあること、そして、蟻地獄のように抜け出せないものでは無くて、その苦難から抜け出すための脱出の道も備えた上で、神は試練を与えておられる、と言うのです。

 

  だから、人の通っている苦しみは、神の知らないものでは無いのです。神は、その人の苦しみや痛みや悲しみを知りながら、試練を置かれているのです。

 

  砕かれた心は言うのです。「わたしは、あなたを知りませんでした。あなたは、私の悟り得ないことを知り、すべてができる方であることを知りました。」

 

  砕かれた心は、神の御前でへりくだり、神のご計画は不思議であり、ご配慮は素晴らしい、と神を讃えるのです。

 

  人は、神が行われる御業を、初めから終わりまで見極めることが出来ません。しかし、主の御業は完全なのです。主の道は正しく、神のなさることは時にかなって美しいのです。