ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの愛

 

  「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とイエスは天の父に祈られました。

 

  十字架にかかる前日の事でした。そして、イエスは、弟子達にいわれました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

 

  かつて、舟に乗っておられる時、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった事がありました。イエスだけは枕をして眠っておられました。

 

  弟子達はイエスを起こして言いました。「先生。私たちが溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

 

  眠っているイエスも共に水害に遭うのに、弟子達は眠っているイエスを心配するのではなく、自分達が危険な目に遭う事を恐れ、イエスを責めたのです。

 

  「先生。大変です。起きて下さい」ではなく、「私達が溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか」と怒っているのです。

 

  イエスは起き上がって、風を𠮟りつけ、湖に「黙れ。静まれ」といわれました。すると、風はやみ、おおなぎになったのです。

 

  弟子達は大きな恐怖に包まれて、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と互いに言った、と聖書に書かれています。

 

  イエスは、父の中で安らいでおられたので、何も心配していなかったのです。そして、イエスは彼らにいわれました。

 

  「どうしてそんなに怖がるのです。信仰が無いのは、どうしたことです。」と、弟子達が波を見て怯えていたことを、たしなめました。

 

  イエスは、弟子達にとって、スーパーヒーローだったのです。イエスのことばの力に驚き、イエスの信仰に仰天したのでした。

 

  そのイエスが今、目の前で、苦しみもだえておられるのです。いつもとは、様子が違います。少し離れた所で、ひれ伏して祈っておられます。そして、「ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と、共に居ることを願われたのです。

 

  弟子達は、目を開けていることが出来ずに、眠ってしまいました。イエスは、弟子たちの所に戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロにいわれました。

 

  「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしと一緒に目を覚ましていることができなかったのか」と落胆し、「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」といって、また、離れた所で祈られました。

 

  「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください。」

 

  イエスは、ご自分が人々の罪の贖いのために、生贄の神の子羊として、父から地上に遣わされていることを知っておられました。また、その時が近づいたことも知っておられました。

 

  ご自分の使命を知っておられるのに、「十字架の苦しみを、わたしから過ぎ去らせてください」と父に懇願するほど、十字架の贖いの責務は重く、人の子イエスは弱っておられました。イエスは、肉が裂ければ血が流れ、痛み苦しむ肉体を持つ人の子だったのです。

 

  弟子達にともに祈っていて欲しい、と思うほどに耐えられない孤独を味わっておられました。

 

  エルサレムに上る途中に、イエスは十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話されました。

 

  「さあ、これから、わたし達はエルサレムに向かって行きます。人の子(ご自分のこと)は、祭司長、律法学者達に引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らは嘲り、唾をかけ、鞭打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、甦ります。」

 

  また、イエスはいっておられました。「わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。」「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

 

  イエスは、すべて知っておられるのです。十字架につけられ、処刑されて、墓に入り、三日後に墓から甦ることも、父のもとに帰ることも知っておられたのです。

 

  すべてを知っておられるイエスが父に祈られたのです。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください。」

 

  この祈りを終えて、イエスの心に十字架につけられる覚悟が整いました。イエスは神の子だから、何の苦しみも無くすんなりと十字架に向かわれたわけではありませんでした。人の子イエスは、すべての人の苦しみも痛みも悲しみも嘆きも、すべての人の罪もご自分ひとりが被り、人類一の極悪人になられたのです。神の呪いも人々の呪いも一身に、人の子イエスがたったひとりで負われたのです。

 

  一度も罪を犯さず、病を癒し、悪霊を追い出し、死人を甦らせて、神を現し、永遠のいのちについて、神の御国について教え、人々に救いのことばを語ったイエスに、罪人は感謝するどころか、イエスを憎み呪いました。

 

  イエスがした善い事を理解せず、イエスを十字架につけ、イエスが死ぬこと、消えて居なくなること、滅ぼしてしまうことを望みました。罪人は皆、一斉にイエスを嘲り罵り嘲笑いました。善に悪を返したのです。

 

  弟子達も人々を恐れて、逃げて行きました。たったひとりになりました。

 

  「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」十字架上で、父に向って叫ばれました。イエスは、ご自分のからだと命を人々の贖いのために献げ、その上、滅びゆく愚かな罪人の赦しと救いを懇願されたのです。ご自分の身を切り裂く人々のために、父に執り成されたのです。

 

  イエスは、神に捨てられました。罪人の代わりにイエスが捨てられたのです。神の呪いと怒りは、イエスの上に置かれました。

 

  「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」イエスは、父から捨てられ、もはや「アバ父」と呼ぶことは許されません。

 

  「完了した」といわれ、息を引き取られました。

 

  イエスがすでに死んでおられたので、そのすねは折られませんでした。しかし、ひとりの兵士がイエスの脇腹を槍で突き刺すと、ただちに血と水が出て来たのです。血と水に分かれるほどに、イエスは、人類が味わったことの無い極限の苦しみのうちに、救いのわざを全うされたのです。

 

  イエスは、永遠の愛の中に入れるために、いのちがけで、私達を愛してくださったのです。そして、今もあなたの救いのために執り成しておられるのです。

 

  ヨハネは言いました。「もし誰かが罪を犯したなら、私達には、御父の御前で弁護して下さる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」