ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

真理の恵みを受ける

 

  イギリスの有名な説教者であるスポルジョンは言っています。「異端と思われるところに真理がある。」この言葉を目にした時、電流に打たれたようでした。

 

  本当にそうだと思いました。皆は異端者となることを恐れて、無難な道を歩もうとします。他のクリスチャンからも認められる言動を心掛けます。しかし、霊の開放は得られません。信仰もマンネリ化します。

 

  神は、こういう人のことを、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであって欲しい。このように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」といっておられます。

 

  神は、霊的に興味が薄く、人を恐れる臆病な信仰者には興味がないようです。

 

  聖書のみことばをそのまま受け入れ信じることは大事です。しかし、使徒の働きの17:11-12では、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者達よりも良い人達で、非常に熱心にみことばを聞き、果たしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った」とあります。

 

  聞いてこれは良いと思って単純に信じる人は、しばらくすると、忘れてしまいます。毎日聖書を調べる人は、熱心に聞く人です。聞いて調べて、そのことが本当だと思った人は、裏付けがある確かな信仰を得ます。そういう人は、簡単には離れません。

 

  聖書を調べ確認する人は信仰に入った、とあります。信仰とは、単に信じることでは無くて、目の前に神を見ているかのように御顔を仰ぐことです。肉の目には見えない神を心の目でとらえるのです。神は、信仰が芽生えた者に、霊的に見る、聞く、感じる心も芽生えさせて下さるのです。

 

  神は、幼子のような信仰を喜ばれるのでは、なかったのでしょうか。知識の無い幼子のように、ただ信じるだけでは駄目でしょうか。幼子は、信じてくつろぐのです。100%の心で全身を委ね切ってしまうのです。

 

  それに比べて、大人は生活の一部分で信じて、心の大部分は自分の事柄でいっぱいなのです。

 

  信仰を得る人にとって、みことばはいのちのパンとなるのです。みことばはいのちのパンである、ということは真理ですが、受け取る側の在り方によって、ただのことばにもなってしまいます。

 

  真理(イエス・キリスト)に目を向けるならば、真理である神の御手の中に入るのです。一つ一つの事柄に意味があることを知る者とされていきます。

 

  もし聖書のことばに留まり、キリストのことばに留まるなら、真理を知るのです。そして、真理は、私達を自由にするのです。

 

  今まで、偽りの霊に騙されてきました。イエスが重要と思っておられないことに熱心に仕え、イエスが願っておられることを見落として来ました。

 

  イエスが願うことは何ですか。イエスご自身に聞いてみましょう。イエスを喜ばせようとしたのに、今までの努力は何だったのでしょう。それは、イエスの願いを聞かないで、ひとりよがりなものを押し付けてしまった結果です。

 

  イエスに聞いて、イエスの望まれることをしましょう。イエスは多くのことを望んではおられません。まず、私の前に座って安息しなさい。わたしの前で安らぎ、わたしを見、わたしの声を聞きなさい、といわれます。

 

  人がする事は、キリストの語られることに耳を傾け、キリストの語られることを守り、或いは従うことです。それが、神の御前に覚えられることです。

 

  信仰生活の中で、果たしてどれだけの神に覚えられる事を残して来たでしょうか?ヨハネは言っています。「無くなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」

 

  あるたとえ話を聞きました。

 

  貧しいひとりの青年が、豪華客船の事を知り、自分もその中に入ってみたい、と夢を持ちました。目標を持った青年は、怠惰な生き方を改めて、豪華客船に乗車するためのお金をがむしゃらに働いて貯めました。

 

  生活のすべてはこの計画の実現のために回っていました。日々の生活の貧しさも苦痛ではありません。青年には夢がありました。夢のようなあの豪華客船に乗って、世界を見て回ることです。

 

  とうとう乗船券を手に入れることが出来ました。心は高鳴ります。当日、乗客者は美しい衣装や立派な出で立ちで大きな旅行鞄を持って船に乗り込みます。

 

  みすぼらしい恰好の青年は、わずかな食料と乗船券を手に乗り込みました。自分のみすぼらしさを恥じるのでなく、ただただ客船に乗車出来た喜びで満たされていました。

 

  数日して青年はとても困りました。持参した食料が尽きてしまったのです。こっそり皆が食事している食堂の方へ行きました。それまでも幾度かそこに足を運んでいました。わずかな食料で飢えをしのいでいた青年は、豊かな食事を羨ましく思って眺めていたのです。

 

  食べる物が無くなった青年は、食堂に思い切って入って椅子に座り、食べた事の無い美味しい食事を食べ始めました。外は海だ。どこにも逃げられない。捕まったら捕まったときだ、と腹をくくって食べました。客船の中も夢のようだが、なんてこの料理は美味しいんだ。夢中になって食べ終えました。

 

  食べてしまった後で、今度はどうやって食堂の外に出ようかと、一心に考え始めました。乗客は皆いなくなりました。ひとりぽっつんと、うなだれていました。

 

  乗務員は誰ひとり、この青年を咎めません。皆最高の笑顔で応対してくれます。あれっ?おかしいな。そして、わかった事がありました。最初に購入した、乗車券に食事代が含まれていた事を知ったのでした。乗客は、食事をいくらでも自由に食べても良かったのです。

 

  クリスチャンの多くがこの青年と同じことをしている。神はすべてを与えておられるのに、水のバプテスマを受けただけで満足している。主に求めなさすぎる、というのです。

 

  神は、すべてを持っておられる豊かなお方なのに、クリスチャンは小さく見積もっている、というのです。

 

  癒しを悪魔のわざだ、と警戒している人がいる事を知りました。癒しはイエスが神の栄光を現わしたわざではなかったですか。いつの間にか、神の栄光が悪魔に奪われてしまいました。

 

  キリストを信じる者に御霊が与えられています。御霊によれば、霊の賜物は開かれます。賜物を神に求めた事があったでしょうか。求める者は、神の示しを捉える事も、癒しも、預言もする事が出来ます。

 

  御霊によって生まれ変わる者は、肉の人間の知り得ない秘密まで悟る事が許されているのです。人間の常識で考え、人々が恐れ近づこうとしない所に、宝が隠してあるようです。

 

  神の御顔を仰いで、大胆に恵みの御座に近づきましょう。神が与えてくれる霊は臆病の霊ではありません。神に求めましょう。神の豊かさを味わっていきましょう。