イギリスのスポルジョンが牧会する教会での事です。
一日の働きを終え、スポルジョンは牧師室に居ました。教会の人々はすべて帰宅し、スポルジョンはひとりでした。スポルジョンは机に向かい、煙草をくゆらせていました。
そこに、用事を思い出したひとりの教会の執事が引き戻り、牧師室に入って来ました。牧師が煙草を吸っているのを見た執事は、すぐさま謝りました。
「牧師、申し訳ございませんでした。私共の祈りが足りなくて、牧師にこのような事を行わせてしまいました。」
スポルジョンは、煙草が信者のつまづきになるならと、それ以降は一切煙草をやめたそうです。
有名な説教者のスポルジョンが煙草を吸っていた事にも驚きましたが、そのことで牧師を責めるのではなくて、私共の祈りが足りないせいで牧師が煙草を吸っていると解釈し、祈りを怠っていた自分を反省するという執事の信仰の在り方に驚きました。
また、自分の行いが信者のつまずきになるなら、ときっぱりと煙草をやめたスポルジョンの信仰の姿勢にも感動しました。
このスポルジョンが牧会していた教会はキリストのための教会だったのだな、と思いました。牧師のための教会ではなく、皆がキリストに仕え、キリストの栄光を求め、キリストに良いものを献げる事を心掛けていた教会だったのだ、と思いました。
執事はキリストに仕えており、牧師にはっきりと言える人でした。
イエスが昇天されて、聖霊がエルサレムに下られた後で使徒になったパウロも、イエスとともに過ごしていた大使徒ぺテロに面と向かって講義し、非難しました。
このペテロは、イエスから「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩(イエスは生ける神の子キリストである、契約の民ユダヤ人が待ち望んだメシアである、という信仰)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(この信仰に悪魔も勝利する事は無い)。
わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます」といわれた、シモン・ペテロでした。
ペテロは異邦人と一緒に食事をしていたのに、ヤコブから来た人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったので、ほかのユダヤ人達も、ペテロと一緒に本心を偽った行動を取り、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
この事を通して、彼らが福音の真理について真っすぐに歩んでいないのを見て、パウロは皆の面前で、ペテロを叱責しました。
「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。私達は生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私達もキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
何故なら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
厳格なパリサイ派から信者になった人々が「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張したことで、使徒達と長老達は、この問題を検討するために集まりました。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言いました。
「兄弟達。ご存じのとおり、神は初めの頃、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私達に与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をし、私達と彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめて下さったのです。
それなのに、何故、今あなたがたは、私達の先祖も負いきれなかった軛(くびき)を、あの異邦人の弟子達の首に掛けて、神を試みようとするのです。
私達が主イエスの恵みによって救われたことを私達は信じますが、あの人達もそうなのです。」
その後で、ヤコブが言いました。
「聖書にはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。即ち廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元通りにする。それは、残った人々、即ちわたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こういわれる。』
そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」
パウロの真理に立った非難は、キリストの教会の歩みを正しいものにしたのです。
牧師も役員もキリストに仕える教会は、また、主を認め真理を求める教会は、互いに戒めて、キリストの御思いに立つ歩みをするのでしょう。