ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

正しいと思っているものが正しい者は幸いです

 

  自分が正しいと思うものが、正しい者は幸いである。

 

  自分が正しいと信じているから大丈夫、と思う人は多いと思います。自分を信じる事の大切さを、世は訴えます。自分を信じなさい、信じて生きなさい、と励まします。

 

  聖書には、このようなことばがあります。

  「人の目には真っすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」

 

  聖書の真理、いのちの道を知る者は、まず立ち止まって、今進もうとしている道が正しいのかどうかを考えます。

 

  いのちの道は、肉の目では見えません。真理を求める者にとっては、その道を信じる信じないではなく、神の目に正しいか正しくないかが進む動力となります。

 

  他人が同意してくれても、いのちを与える方の同意がなければ、とても無謀な行為となってしまいます。

 

  人は同意はしても、その道が間違っていた時の責任はとってくれません。あ~ぁ、違っていたんですね、で終わりです。その責任は、本人が取らなければなりません。

 

  御霊が導かれる道は、どんなに危険が伴う道であっても、信仰を失わなければ、最後まで面倒を見て下さいます。神ご自身が責任を取られるのです。

 

  民族性を現す面白いたとえ話があります。

 

  「大きな旅客船が沈没することがわかった船長は、船の危険を知らせ、乗客を無事に救助したいと思い、アナウンスしましたが、状況がわからない乗客は船に留まったままです。大勢の人を船から降ろすには、早めの対策が必要です。今から降ろして行かなければ、全員が助かる見込みが無くなってしまいます。

 

  乗客が、アメリカ人、ドイツ人、イタリア人、日本人であることを見て取った船長は、国ごとにアナウンスすることにしました。

 

  船長が『船から降り、救命ボートに乗ることはカッコイイことです』とアナウンスすると、イタリア人は続々と救命ボートに乗り込みました。

 

  次に、船長が『船長の命令です。船から降りてください』とアナウンスすると、ドイツ人が慌てて飛び降りました。

 

  次に、船長が『保険が掛けられていますので、安心して船から降りてください』とアナウンスすると、アメリカ人がこぞって救命ボートに移動しました。

 

  最後に、船長が『皆さんはもう、救命ボートに乗っておられます』とアナウンスすると、日本人が一斉に救命ボートに移りました。」

 

  こうして、船長は乗客を、全員無事に救命ボートに乗せることが出来た、というジョークです。

 

  日本人は、みんながやっている、ということに弱いのです。

 

  日本の中でも、以前流行った、有名な言葉があります。「赤信号、みんなで渡ればこわくない。」赤信号で止まる事はルールです。ルールを守らない人に、日本人は寛容ではありません。

 

  でも、みんなが一緒に渡るのだったら、誰の批判の目も気にすることはない。他の人もやっているのだから、私を責める事は出来ないだろう、という考えなのだと思います。

 

  この言葉を聞いた日本人は、なんと不謹慎なと思うよりも、抜け道を見出したようなほっとするような笑いをします。

 

  自分達でわかっているのです。個を出すことなく、みんなと一緒にある事が普通だった日本人は、みんな一緒という事に安心するのです。他人と違うことは、かなりエネルギーがいることであり、よほどの覚悟がないと、固辞して新しい道に立つことはかなわなかった、と思います。

 

  日本人は他人と違うことに不安を覚える民族性があります。みんな一緒が安心なのです。神は、真理の道を歩ませるために、日本人にはあえて、一度、みんな一緒に行く安心感を引き裂かれるのかも知れません。

 

  日本人は、他民族と比較すると、自分を出さず、おとなしくて穏やかなところがあります。これが、真理の道を歩むのに、難点でもあるのです。

 

  おそらく、日本人はクリスチャンに対して、良いイメージがあると思います。クリスチャンは人の嫌な事をしない親切で優しい人。このイメージに、クリスチャンは閉じ込められてしまいます。

 

  クリスチャンなのに?何故?これは、クリスチャンの中にもある思いです。自分達で自分を縛ってしまいます。

 

  クリスチャンは、人の目で見て良い人である前に、神の真理を望む者です。世の価値観ではなく、神の価値観で生きるように召された者です。

 

  しかし、従順、親切、愛だけを切り取って、世のいい者にされてしまう危険性もあります。クリスチャンは、世の人々の奴隷ではありません。世に迎合する、人の良い人でもありません。

 

  イメージが、真理を見えなくさせているのかも知れません。その愛や親切が、キリストに根付いたものかどうかチェックする必要があります。

 

  イエスは、真理に敵対する者には、「まむしのすえども」とか、「悪魔の子」と、かなり辛辣なことばで叱責していました。

 

  優しさや、人がイメージする愛で対応されることは無かったのです。それに比べて、クリスチャンは、誰にでも下手に出て親切であろう、としてしまいます。

 

  しかし、神は王様のような心の人を求めているわけではありません。キリストのように、しもべの心を持って神を畏れ、主を愛し、神に仕える人を集めようとしておられるのだ、と思います。

 

  自分が良いと思うことによってではなく、神が望まれることに従って歩むならば、神の報いを受けます。

 

  今している事は神に覚えられることなのかどうかを神に尋ねましょう。人に認められることではなく、神に認められることを望みましょう。

 

  天に帰る人々は、神が正しいとされることによって、歩んでいきましょう。クリスチャンは、永遠のいのちを得る者として招かれているのですから、永遠のいのちに相応しい生き方をしていきましょう。

 

  イエス・キリストがその生き方を実践して教え、主の御霊が教え導いて下さいます。