ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生ける神と日本

 

  初めに神が天と地を創造した。

 

  何も無かったとき、神は存在しておられました。神は永遠の昔から、自ら存在し、終わりの無い方です。

 

  「わたしはある」と名乗られるように、すべてのものは神によって存在するのです。太陽はある。月はある。地球はある。海はある。陸地はある。山はある。木々はある。人はある。...すべてのものの在るは、神に起因しているのです。

 

  目に見えるすべてのものは、自ら存在し創造者である全能の神、生ける神によって成っているのです。

 

  また、人の目に見えない霊の世界に存在するものも、永遠の昔から自ら存在される生ける神から生まれたものです。

 

  神は創造者でもあり、保たれる方でもあります。すべてのものは、神の意思によって存続し、神の計らいによって取り除かれます。

 

  すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るのです。

 

  「ああ、神の知恵と知識と富は、何と底知れず深いことでしょう。その裁きは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

  誰が主の御心を知ったのですか。また、誰が主のご計画にあずかったのですか」とパウロは言います。

 

  一本の木よりも小さい人間が、理屈を並び立てて、宇宙よりも大きな神に立ち向かい、神を責めたて、全能者と争います。

 

  全能者はいわれます。

  「あなたは海の源まで言ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。死の門があなたに現れたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。あなたは地の広さを見極めたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げて見よ。」

 

  神の創造に誰が伴い、神の創造を見届けたのでしょう。人間は地球の一点から、宇宙を見ています。太陽や月や星々を眺めるだけです。神は、すべての銀河を見渡し、地球で木々を飛び交う一羽の雀の命をも管理しておられます。

 

  全能の神の偉大さを知ったとき、人は言うのです。

  「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

  一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私は繰り返しません。」

 

  神はその時代時代に御自身を現して行かれます。

 

  ノアは、神を畏れる者でした。

 

  アブラハムも、大洪水からノアを救った全能の神を畏れました。全能の神は、創造主でもあり、存在するすべてのものを支配し、滅ぼす力を持つ主権者です。

 

  アブラハムは、主権者である神を知り、神を認識して生きる者でした。いのちの根源である神を畏れ、神にへりくだって生きる神のしもべでした。

 

  命の所有者である、いのちの神を恐れる者でした。人間が作った神々ではなく、人間を造り、すべての被造物の上に立ち、また、すべての神々の上に立つ神、宇宙でさえこの方をお入れすることが出来ない、偉大な神に心へりくだる者でした。

 

  神はアブラハムの信仰をご覧になって、彼を義とされ、アブラハムの子孫に人類を死と滅びから救うキリストが生まれることを約束されました。

 

  アブラハムには、二人の息子がいました。ひとりは女奴隷ハガルの子、もうひとりは正妻サラの子でした。

 

  ハガルの子のイシュマエルの子孫はアラブ人。サラの子イサクの息子ヤコブの子孫はユダヤ人です。

 

  アラブ人もユダヤ人も神と契約を結んだアブラハムの血肉の子孫でありながら、アブラハムと契約を結んだ、アブラハムの神をアブラハムが知ったようには、知ることが出来ません。

 

  彼らの霊は暗くなっています。アラブ人はアブラハムの契約を受け継いだ正妻の子孫ユダヤ人への妬みと怒り、憎しみによって思いは暗くなり、ユダヤ人は、モーセが与えた律法によって、霊が見えなくなってしまいました。

 

  霊の思いが塞がれたアブラハムの二人の息子の子孫は、父祖アブラハムの心とは違い、アブラハムの神、主と全く一つにはなっていません。

 

  神は、神を求め神に仕えるアブラハムの子イサクの息子ヤコブから、イスラエル民族を生み出されました。人類の中で神に仕える祭司の民族として造られたユダヤ民族は、アブラハムの神を見失ってしまいました。

 

  地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神は無いことを知るようになるために立てられたイスラエルに、主を畏れ、主と心を全く一つにし、主の掟を歩むダビデ王が立ちました。

 

  神はダビデに現れ、ダビデ王の子孫にダビデの子と呼ばれる、永遠に堅く立つ王が生まれることを約束されました。

 

  神が約束されたダビデの子は、神が天から遣わされる神のひとり子、神の御子でした。

 

  御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方でした。万物は御子にあって造られており、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られていました。

 

  万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 

  御子は、肉体を持つ人の子イエスとなって、イスラエルのベツレヘムの地で処女の女から生まれたのでした。

 

  生ける神は、ご計画を持って、人を動かし、世界を動かし、闇の支配の終焉に向けて、世を導いておられます。目に見えないけれども、永遠に生きておられる神、キリスト・イエスを地上に遣わされたいのちの神が、統べ治めておられるのです。

 

  この全能の神と契約を結んだアブラハムは、正妻サラの死後、もうひとりの妻ケトラを娶りました。ケトラは六人の子を産みました。

 

  アブラハムは存命中に、神の契約を相続するイサクに全財産を与え、そばめの子らは東の方、東方の国にやって、イサクから遠ざけたのです。

 

  日本に最初やって来たのは、アブラハムのそばめの子であったのかも知れません。何故なら、日本人の根底に流れる精神、いのちの神を畏れ、いのちの神を敬う心は、アブラハムの信仰と良く似ていると思うからです。

 

  ユダヤ人も見失ってしまった、アブラハムと契約を結ばれた霊なる全能者、いのちの神への信仰が、何故か、東の小さな島国日本に残されているのです。

 

  バビロン捕囚によってイスラエルが神殿を失った頃から、日本では生ける神に仕える天皇が現れたのです。