日本神道は、創造主なる霊なる神がすべてのものを生かしておられるいのちの神である、という信仰が土台にあると思います。
取り巻く環境に神を認め、神を畏れて神を敬う心を育てました。それで、木々や花、水や火、山や川、岩や生き物、すべてに神を映し出し、神によって生かされている恩恵を受け取って来ました。
日本人の心の深いところにある信仰は、生かされている恵みに有難い、と思う感謝の気持ちでした。
この世で、生かし守って下さる神に感謝し、見ておられる神に恥じない生き方を心掛けて、与えられた命を置かれた場所で誠意をもって生きることが、多くの日本人の生き方であったと思います。
迫りくる自然の猛威に逆らわず、粛々とその状況を受け入れ、(仕方ない)という思いを支えに生きて来たのだと思います。
この地上で精いっぱい生きることが良しとされ、神を畏れる心を抱えて生きて来たと思います。
この世での救いという考えは、仏教が入って来てからのことではないのか、と思います。現世の救いという望みも考えも無いまま、次の世に思いを託すという考えだったのかも知れません。
現世での救いを求めていない神道に、キリストを求めることは無いでしょう。救世主の任務を背負ってこの地上に来られた神がいる、とは信じがたいことでしょう。
先祖代々畏れ崇拝して来た、創造主なるいのちの神が、天におられる神の御子を人のかたちにして地上に遣わし、人々の間に住まわせるなんて、聞いたこともありません。ましてや、天からの救い主を望むことすら、失礼なことに思います。
神道では、神を聖なる方と畏れ、神の御前に出る前には、汚れを清めなければいけません。神社を参拝するときには、手水舎(てみずや)の水で両手を清め、口をすすぎ洗い清めます。
神道では、神は聖なるお方で、軽々しく近づいてはいけないお方です。厳粛な思いで神の御前に立ちます。
伊勢神宮参拝では、個人的な願い事はしないで、日々の暮らしへの感謝をささげることが良いとされているようです。
日本神話に出て来る神々が祀られている神社では、神道の精神が残っていると思います。
しかし、後から日本人が自分達のために造った狐や蛇などの獣やはうものを祀った神社や死んだ偉人を神とする神社は、神道の精神からかけ離れています。
創造主を畏れ敬う神道の精神は、目に見えない神を霊によって感じ、霊によって参拝します。このような神社には、静寂があります。厳粛な場所であり、身の引き締まる感覚を味わいます。
この感覚が、日本人の精神を育てて来たのだと思います。
さて、キリストは必要か、についてですが、これは人が望んで与えられるものというよりも、神御自身がキリストを地に送ることを決められたのです。キリストは、天地万物を造られた神が定め、世に遣わすと神がご計画されたことなのです。
それは、いつのことでしょうか。創造主が御子のために、最初の人を造り、アダムにエバを造られました。神は彼らをエデンの園に置いておられました。
このアダムとエバは、人類の祖でした。神はアダムにエデンの園を耕させ、木々や植物や生き物等、神が造られた地の被造物のすべてを管理するように命じられたのでした。
緑の草や木の実を食物として人に与えられた神は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」とアダムに命じられました。
アダムは、神のことばを守り、善悪の木の実は食べませんでした。しかし、アダムから造られたエバは、その理由を知ろうとしました。アダムは、素直であり、神のことばに従順でしたが、エバは神と一つ心になってはおらず、自分が納得出来ないと神のことばに服従するのに困難を覚えたのでしょう。
ある日、エバは蛇から言葉を受けました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを知っているのです。」
エバは、アダムに尋ねましたが、神に直接尋ねることなく、蛇の言葉を頼みとしました。
エバの心は、真理を知ることよりも、自分自身の思いを共有してくれるものを求めていたのかも知れません。エバは、神が禁じられた善悪の木が、何故、園の中にあるのかを不思議に思っていたのかも知れません。
蛇の言葉を聞いた時、エバの心はぱっと明るくなった気がしたことでしょう。自分の思っていたことと合致したのです。エバは、蛇の言葉をアダムに確かめもせず、目に入った善悪の木の実を見て、好奇心のおもむくまま、その実をもぎ取って、かじりました。
その味は、味わった事の無い新しい味であり、未知の体験に新しいものが開かれたような、何かわくわくした感動を覚えたのかもしれません。エバは、神のことばを守るということに、無頓着でした。エバは、アダムのように慎重ではありませんでした。
それを一部始終見ていたアダムは、エバにどんな変化があるのかと、案じていました。しかし、悪いことが起こる様子はありません。エバは、嬉しそうにしています。アダムの中にあった、死への恐れは和らぎました。
アダムの中にあった善悪の木の実に対する、得も言われぬ恐れがあまり意味のないことに思われました。自分の思いのまま自由に振る舞うエバの、自分の持っていない大胆さに、アダムには憧れもありました。
ひとりでアダムの知らない領域に足を踏み入れたエバの後を追うように、アダムも愛するエバの手から善悪の木の実を受け取り、かじってみました。
アダムが食べたその時、ふたりの意識は変わりました。アダムは、神に命じられた通り、エバを正しく支配し管理するどころか、エバの言葉に足をすくわれてしまいました。神のことばに敵対するエバの言葉に支配されてしまいました。神よりもエバを愛したのです。
蛇の言葉には、呪いがありました。神のいわれた通り、善悪の木の実を食べた人は、いのちを失い、死のからだとなったのです。人の意識は、霊の目が塞がれ、目に見える現象に価値を見出す霊的死人となりました。
善悪の木の実を食べた人は、神の主権にへりくだらずに自分を神とする高慢な心を得たのでした。偽りを愛し、神に敵対する心の汚れが混ざる偽りの者となったのです。そして、永遠に生きるいのちは取り去られ、死の呪いを背負う者となったのでした。
神は、アダムとエバと蛇に判決を下しました。この時、神は、蛇にこう宣告されたのでした。
「おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかと(イスラエル)に噛みつく。」
この時、すでに神は、悪魔の支配を砕くキリストを女の子孫から生むことを定め、まだ、人類が世に現れる前から、悪魔とイスラエルの戦いの末に、キリストの勝利によって、御子のために造った人が回復することを定められたのです。
これらのことは、神の中ではすでに完成されています。神は、キリストによって、被造物のすべてを神の御心通りに、完成されるのです。その中心にキリストがおられます。
神御自身が、被造物全体を完成するために、キリストを創造されたのです。