ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私は罪人なんですか

 

  聖書の神は愛だ、と言いながら、何故、人を罪人呼ばわりするのですか。それを聞くと途端に、心が閉じてしまいます。

 

  他人に迷惑かけないように、努力して来たし、犯罪を犯しているわけではありません。それなのに、罪があるって言われても、他人事にしか思えないです。

 

  罪人って、警察に捕まるような悪い事をした人のことを言うのではないですか。真面目に暮らしている人に、罪人呼ばわりするなんて、聖書の神様ってそんなに偉いんですか。

 

  聖書の神によらなければ、天国へ行けないなんて、あまりにも利己的で、排他的ではないですか。愛の神と言っているくせに、独善的な神なんですね。

 

  真面目で勤勉な日本人の罪に対する反応は、このように感じます。

 

  仏教で罪と言うと、自分自身では抑えきれず、コントロール出来ない欲望、いけないとわかっていても、ついついやってしまう自分の弱さが、自分だけでは無かったんだと、まず安心させてくれます。これが、誰もが内に持っている罪だと知ります。

 

  聖書では、罪人だと言います。罪人って言われると、罪とは違って、私自身のことをさしているとわかり、身構えます。言い訳を探します。

 

  仏教は、人間の立場から、罪を解き明かしてくれます。それを煩悩として説明してくれます。もともと、人間のうちにあるものです。日本人は、そうだ、そうだ、その通りだ、とばかりに、説法に聞き入ります。

 

  成人式でスピーチされた方の言葉が、今も私のうちに残っています。ある刑務所で働く方でした。

 

  「受刑者の話を聞くと、その人が特別な人だとは、思いません。その人と同じ状況になったら、私も同じことをする可能性がある、と思うのです。私が受刑者でないのは、私がその状況に遭遇していないからだ、とも思います。」

 

  私は驚きました。そんなこと言っていいの、と思いました。その方が言うには、犯罪者とそうでない人の間には、大きな壁があるわけでは無い。悲しいことを悲しいと感じ、痛みを痛いと感じる同じ人間であり、いつ犯罪者になっても、おかしくない、と言われました。

 

  受刑者の罪を犯してしまったいきさつの中には、同情すべきことも多いが、犯罪者となってしまったら、その責任を負わなければならないと言われました。

 

  「受刑者が刑務所を出所してから、世間は全く別物となっています。犯罪を犯す前のような生活は難しくなるのです。刑務所で償ったはずの罪が、影のように人生に付きまといます。

 

  成人した皆さん。未成年の頃のように、少年A、少女Bとは報道されません。実名で報道されるようになるのです。どうか、責任を持って歩んでください。」

 

  犯罪は罪だと思います。刑務所に入れられる罪が罪だと思います。それは、国家の法に反するからです。

 

  日本に住む日本人は、自分が日本国家の国民だと思います。疑いはありません。各々の国、それぞれの法があります。アメリカ合衆国では、州ごとに法律が違うと聞きます。その土地に住む住民が守るべき法律があるのです。その社会は、その社会が持つ法律や決め事によって、統制されています。

 

  法律や決め事から外れた者は、違反者として、その社会から隔離されるのです。

 

  人は、創造主によって造られた被造物であり、神の法の中で生きていました。神がアダムに定めた決め事は、ただ一つ。アダムの住む領域であるエデンの園にある善悪の木の実を食べてはいけない、という事でした。

 

  善悪の木の実とは、自分で物事を判断し、自分を神と等しくする、という神の主権に服さない考えを持ち、神の主権に背き逆らう、神の法の違反者としてしまう毒だったのです。

 

  神と一つ心だったアダムは、その害毒である善悪の木の実を食べて、神の法の違反者となり、神の光の世界から追放されました。そして、この世に置かれたのです。

 

  この世は、犯罪者が収容された、刑務所のようなものです。人は生まれた時から、神の法の違反者です。神の主権に忠実な者ではありません。人は、この世で、神の法の違反に気づき、深く反省し、創造主の存在を知り、悔い改め、神に立ち返って神の法を守る者となることが期待されています。

 

  神の法の中に入る者は、最初の人(エバが造られる前のひとりの人)のように、神を仰ぎ、神に従順な者となり、死の無い永遠の光の中に安息する、神の国の国民、神の子となるのです。

 

  神は、新しい契約を神の民との間に立てられました。十字架につけられたイエスを神が天から遣わされた神の子羊キリスト(救世主)である、と信じる者に永遠のいのちを与える、という契約です。この契約が、この世に与えられた、神の法なのです。

 

  神は、この世から、神の子を呼び集めるために、救世主キリスト・イエスを地上に遣わされました。

 

  キリストは、アダムの違反の罪を償い、人々をアダムの違反による死の呪いから解放されたのです。イエスは、人々を天の父なる神のもとへ導くための救世主なのです。この世から救い出すために来られたのです。

 

  この世は、人々を罪に定めて、死に向かわせ、滅ぼすものです。神から油が注がれ遣わされたキリストは、この世から救い出し、神の元で永遠に生きる神の子とするために、永遠に生かす神の法を与えられたのです。

 

  十字架で生贄となった救い主を信じ、神の子羊イエスの贖いの血を受け、神の法の中を歩む者として、御霊によって新しく生まれ変わり、御霊に従い御霊とともに生きることです。

 

  天地万物を造られた神の定められた法に違反したままでは、神の国に入ることのできない罪人です。神は、その違反の責めを御子イエスに負わせて、神との和解の道を用意して下さったのです。

 

  アダムが犯した違反によって、罪が世界に入り、死が支配するようになりました。しかし、イエス・キリストにより、恵みと義の賜物(贖いの神の子羊の血)によって、いのち(御霊の永遠のいのち)とにあって支配するのです。

 

  最初の人アダムの一つの違反によって、すべての人が罪に定められたのと同様に、イエス・キリストの一つの義の行為(十字架の贖いの死)によって、すべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

 

  ひとりの人アダムの不従順によって、多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの人イエス・キリストの従順によって、多くの人が義人とされるのです。

 

  人は、生まれた時から罪人です。しかし、その罪の身代わりとなって死んで下さった救い主イエスによって、罪を贖われた罪人なのです。人は、救いの望みを持つ囚われ人です。

 

  「望みを持つ捕われ人よ。砦に帰れ。神のもとに帰れ」と創造主は語っておられます。