人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっています。
これは、人を造られた創造主であり、裁き主なる神が定めておられることで、誰ひとり例外はありません。
人類史上、生き続けている人はいません。神の御子イエスも十字架で死にました。肉体には寿命があります。年老いて、体の機能も少しずつ衰えます。そして、やがて死を迎えるのです。
神は人生に神と出会う機会を設けて、ひとりひとりを導いておられます。世を過ごす期間は肉体を持っています。肉体の感覚の奥にある意識、目に見えない魂によって生きる人は、目に見えない霊的な事に思いを馳せ、神と出会う環境へと進んで行きます。
こういう人は、世に生きていても、自分はここではない、と何か世としっくり来なかったりします。ほかの人達は楽しくやっているのに、それを楽しいことと思わなかったり、居心地が悪かったりします。
皆が興味ある事に関心がなく、人中に居て、心の中は孤立しています。表面は他人に合わせるので、他の人が気づくことはありません。しかし、自分の心は、ここにあらず、という感じです。
魂の感覚に鈍い人は、目に見えること、目の前のことに夢中です。魂で生きている人は捉えどころの無い変わった人に思えるし、別世界の人のように思います。何が楽しくて生きているんだろう、と思うのかも知れません。
肉体の感覚で生きる人の意識と、魂の感覚で生きる人の意識の間に、接点はありません。話をしても嚙み合わないのです。
目に見えるものを追いかけて生きる人と、目に見えないものを求めて生きる人は、次元が違う世界で生きているようです。
目に見えるものを信じて生きている人も、目に見えないものを信じて生きている人も、同じように、死を迎えます。双方とも肉体を脱ぎます。
目に見えるものを信じて生きている人は、肉体を脱ぐと何も残りません。魂の学びをして来なかったからです。目に見えないものを信じて生きている人は、肉体を脱ぐと霊の世界を確認します。
目に見えないものを信じて、イエス・キリストに辿り着いた人には、霊のからだが与えられる約束があります。
肉体を脱ぐときの死を、第一の死と言います。
肉体を脱いで墓に入った人は、長い眠りにつきます。
キリストが再びエルサレムに来られるときは、世界が一変します。戦争や争いは無くなり、すべての人は、草食になります。獅子も牛と並んで草を食むのです。
その新しい世界では、墓で眠っていた神の民や主キリストの民の死人は甦り、復活のからだ霊のからだで地上でともに生きるのです。これは第一の復活です。
第一の復活にあずかる人は、幸いな者、聖なる者です。この人々に対しては、第二の死は、何の力も持っていません。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間、王となるのです。
キリストが治める世界は、涙も悲しみも無い世界です。肉体で一度死んだ人が神に繋がっていると、死んでも生きるのです。彼らの主イエスが、十字架で死んで墓に入って三日目に復活のからだで甦ったのと同じです。
彼らの信仰通りに、イエスは神の御子であり、キリスト・イエスの父が神であるから、その事が起こります。
目に見えるものを信じて、墓に入った人は、甦ることはありません。彼らの信じる通りになります。彼らは復活することは無く、墓に入ったままです。
同じように肉体を脱いで墓に入ったのに、一方は、その信じる通りに墓に入ったまま、死の状態が続くのに、もう一方は、その信仰通りに墓から復活し、神の御顔を仰ぐのです。
キリストが治める平和な世界も終わりを迎えます。
最後の裁きと呼ばれていた、その時が来ます。その時、すべての死者は墓から甦ります。でも、これは、裁きのための甦りであって、復活のからだを頂くわけではありません。
死んだ人々は、白い御座の前に立って、神が開かれる書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれます。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。いのちの書に名の記されていない者は皆、この火の池に投げ込まれるのです。
第二の死とは、火で燃やされる永遠の死のことを言います。この火で、死もハデスも燃やされるので、こんなに苦しいなら死んでしまおう、ということは出来なくなるのです。
世では、つらい苦しみや絶望から逃れようと自殺する道がありましたが、この永遠の火からはもう、死んで苦しみから逃れるという希望も残されてはいません。
第一の復活にあずかる人は、すでに復活のからだ霊のからだを受けているので、死ぬことはありません。『いのちの書』に名の記されている彼らは、永遠に生きるのです。
同じように肉体の死を体験しても、第一の復活にあずかる者は永遠のいのちを持ち復活のからだで、永遠に神の御国で安息し、第二の死はありません。
しかし、第二の復活で甦る者は、『いのちの書』に名が記されてはおらず、永遠の火の池に投げ込まれ第二の死を受けるのです。泣いてもわめいてもすがっても、そこから出られることは無いのです。
著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)
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