私の胃が急にきりきりと痛み始めました。昨日自家製のさつま芋の干し芋をすごい量を一度で食べきったことを思い出しました。
カビてしまう前に、硬くなってしまう前に、と全部食べてしまいました。その時は胃痛はなかったのに、翌日の朝、胃痛で目を覚ました次第です。
祈ってもなかなか痛みは治まりません。暴食の生活習慣の乱れ、解放出来ていない心の問題(どうしても納得がいかない理不尽な対応に対する恨みがましい思い)、生活の不安が、信仰の土台を揺さぶっていることを知るに至りました。
数日経っても、すっきりしません。はっきりとした悔い改めが出来ずにいましたが、とうとう、悔い改めが出来るように祈りました。先延ばし癖が生活の流れを滞らせていることにも気づきました。
いつも同じ失敗の繰り返しです。きっと、ひとりの人がつまずく原因はいつも同じなのかも知れません。それがその人の弱さであり、取り扱われなければならない問題点なのでしょう。
神はアダムに海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう、といわれました。神は人に管理する働きを与えておられます。
それなのに、私は自分自身のからだの管理もままならないことを認めざるを得ません。私のからだの中で分裂が起こっているかのようです。頭ではこうしよう、と決めているのに、胃も手足も頭の計画通りに動かず、好き勝手にしています。
胃痛の癒しのために祈りました。すると、神の細き声がしました。「わたしは、あなたが健やかで幸いであることを願う。」
私は胃痛に心が向けられていました。これは、神が願っておられる状況ではありません。神は、健やかで幸いな私を願っておられる。
神はいつも変わるお方ではありません。永遠に変わらないお方です。変わったのは、私の方です。健やかで幸いであることを願う神と何かがずれたのです。
痛みや心の不安や手放せない暗い思いと闇の感情。時至って、神はシグナルを発信されたのです。
長い間解決出来ないで来た人間関係。しかし、その人を立てておられるのは神。その人の心を動かしておられるのも神。
どこかでわかっていても、認めることの出来ない自分がいて、気が付くとその人のことを赦せないままでいました。
普段は意識していないのに、何かの拍子に私の内側からむくむくと醜い感情が湧き上がるのです。その感情が醜いものだということには気づいていませんでした。当然の感情だと思っていました。
私の中には多くの理屈が行き交います。そして、私がこの感情になるのは当然のことだと思って来ました。
神はこの私の感情に目をつむっては下さいませんでした。私の感情に同調されないどころか、私に罪あり、とされたのです。
このことは、私の問題であって、その人の問題では無いようです。私の環境に置かれる状況は、すべて神のわざです。神が許された環境、神が与えらえた環境の中に私を取り扱う神の御手がありました。
神の御手が見えず、その人の私にしたこと、言ったことに目が向き、私はいら立っていました。
まるで、ろばに怒りを燃やすバラムのようです。神が行ってはならないと命じられたのに、不義の報酬を愛したバラムはろばに乗って、出掛けます。そこで、主の御使いが抜き身の剣を手に持って道に立ち塞がりました。
ろばは主の御使いが道に立ち塞がっているのを見て、道からそれて畑の中に入った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
しかし、主の御使いがろばの前に立ち、ロバは石垣に身を押し付け、バラムの足を石垣に押し付けたので、バラムはまた、ろばを打った。
主の御使いがさらに進んで、右にも左にもよける余地の無い狭い所に立った。ロバは、主の御使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
その時、主がバラムの目の覆いを除かれたので、彼は主の御使いが抜き身の剣を手に持って道に立ち塞がっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
主の御使いは彼に言った。「何故、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」
私は目が塞がれたバラムです。神の御心に背いているのに方向を変えようとはせず、自分の言い分を主張する者です。
神は、私が健やかで幸いであるために、その人の心を頑なにして、私が異議を唱えることを出来ないようにされたのです。
その人の主張こそが、神の御心なのだ、と認めざるを得ないようにされました。私が異議を唱えることを神は許されないようです。
なんということでしょう。今まで私は、このことについて、最もだと思われる言い分をあれこれと考えていました。
私が怒るのは当然だと思っていましたが、その人を恨むことは、神の御手のわざを恨むことであり、神を赦さないということだったのです。胃痛を通して、私の主張は神の御心に反することであり、手放すべきことであると示して下さいました。
「あなたが健やかで幸いであることを願う」との神のことばは、見えていなかった神の御心に光を投じてくれました。
神が健やかであれといわれるのは、身体だけではなく、霊においてもいわれていたのですね。
神は被造物すべてに、語っておられます。
「わたしは、あなたが健やかで幸いであることを願う。」