ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救いの光

 

  律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。

 

  「先生。この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

 

  彼らはイエスを試した。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こしていわれた。

 

  「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

  そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

 

  彼らはそれを聞くと、年長者達から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

 

  イエスは身を起こして、その女にいわれた。

  「婦人よ。あの人達は今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 

  彼女は言った。「誰もいません。」

 

  そこで、イエスはいわれた。

  「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 

  人の子イエスは、姦淫の女を罪に定めませんでした。

 

  イエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」といっておられます。

 

  また、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」といわれるのです。

 

  イエスが地上に来られたのは、世を裁き人を裁くためではありません。キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたのです。

 

  長老達は、自分自身も罪ある者と認め、姦淫の女を石打ちにすることなく、去って行きました。彼らは、自分を義とはしませんでした。

 

  どんな罪でも、罪の大きさではありません。神の御前では同じ罪人なのです。罪の無い人は誰もいません。自分は罪が無いと言う者は、嘘つきで偽善者です。罪の無い者には、子羊の贖い、十字架のイエスの血は無意味なものとなります。

 

  神が最も嫌う罪人は、自分を正しいとする偽善者です。

 

  姦淫の女は、誰も居なくなっても、そこに立っていました。イエスが地面を見ていることをいいことに、女も逃げることも出来たはずです。

 

  しかし、女はイエスの裁きを待っていました。自分が裁かれるに相応しい事をした罪人であることを自覚していたのです。女の罪は、その女個人の問題ではありませんでした。神の聖なる民の中で、神の聖を汚す罪を犯したのです。この罪は、神に対しての罪、民族の罪でした。

 

  旧約では、一人のユダヤ人の罪によって、イスラエルに災害がもたらされていました。神の民は一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係です。運命をともにするのです。ですから、ユダヤ人の罪は、ユダヤ人の中で厳しく裁かれたのです。

 

  イエスは、姦淫の場で捕らえられたいかがわしい女を侮蔑することもなく、ひとりの女性として敬う言葉、「婦人よ」と呼び掛けられたのです。

 

  女は、自分の罪を隠しませんでした。言い訳をしませんでした。石打ちにされて当然と覚悟していました。彼女は、イエスが捜している失われた人だったのです。罪を悔い改める女をイエスは、赦されたのです。

 

  「今からは決して罪を犯してはなりません」と優しく戒められました。「婦人よ」なんて呼んでくれる人は初めてでした。自分を卑しい者として蔑んで来た自意識に、変化をもたらしました。

 

  女は、イエスの愛に出会いました。私を信じ受け入れてくださる愛に満ちたお方を裏切ることは出来ない。彼女は、イエスの愛に心入れ替えて、イエスを目の前に置いて後の生涯を送ったことでしょう。女は、イエスによって救われました。

 

  イエスは、多くの人の罪を負うために来られたのです。神の子羊イエスは、ご自身を生贄として、罪を取り除くために、来られたのです。

 

  イエスは、罪人を責めるお方ではなく、罪に捕らわれている罪人を憐れまれるお方です。

 

  エリコに、取税人の頭で、ザアカイという金持ちがいました。ザアカイはユダヤ人の嫌われ者でした。ローマに納めるために、同胞のユダヤ人から多額の税を取り立てる取税人であり、しかも、その税にはザアカイ自身の私腹を肥やすためのものが含まれていて、金持ちだったからです。

 

  そんなザアカイに親しく声をかける者はいません。金持ちで裕福な暮らしをしていましたが、心は空っぽで愛に渇き、孤独でした。

 

  イエスがエリコの町に入り、お通りになりました。

 

  人には冷酷なザアカイでしたが、心は愛に飢え渇いていました。今イスラエル中で話題にのぼっているイエスに心惹かれ、一目見たいと切望しました。人には、人なんか求めていないし、愛なんか必要ないという強気の態度を示していたザアカイですが、心のうちでは、イエスを慕い求めていました。

 

  ザアカイは、自分の魂の望むまま、イエスを見るために、いちじく桑の木に登りました。体裁も何もありません。幼子が親の愛にすがるように、純真な心でイエスを慕い求めました。

 

  ちょうどそこに来られたイエスは、上を見上げてザアカイにいわれました。

  「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 

  どうして自分の名前をイエスは知っておられるのでしょう。友達のいないザアカイの家に尋ねて来る人は誰もいません。それなのに、イスラエルで注目されているスーパースターのイエス、誰もがお近づきになりたいと思う、しるしと奇跡の人が自分の家に来られるとは。しかも、一晩ともに過ごせるとは。

 

  神の愛を独り占めするかのような体験です。ユダヤ人から嫌われている自分が、神の人に目を留められ、恩寵を受けるとは。

 

  ザアカイは立って、主イエスに言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人達に施します。また、誰からでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

 

  イエスを家に招いたザアカイは、心を一新しました。もはや以前のようではありません。イエスの愛を受けて心を入れ替え、罪から解放されたのです。

 

  イエスは、ザアカイにいわれた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

  イエスは、罪を見る方ではなく、その人の心のうちを見るお方です。ザアカイの心に財産に変えても罪の赦しと救いを得たいという、光を欲する、渇いた心を見られたのです。

 

  イエスがザアカイに財産を手放すように促したわけではありません。イエスの愛に触れたザアカイに神の霊が働き、ザアカイは神に自分を明け渡して変えられたのでした。

 

  イエスの愛に触れた者は、神の霊によって解放と救いを受けるのです。神は、神の光を照らして、救いを求める者の心のうちに神のわざをされます。

 

  イエスは、世を照らす光として世に現れました。罪に定めるための光ではありません。罪から解放し、救いを得させるための光です。光のもとに来る者は、新しく変えられ、御救いを受けるのです。