ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰は一つ

 

  主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

 

  日本でイエス・キリストと呼ばれる神の御子は、イェシュア・ハ(ヘブライ語)、ジーザス・クライスト(英語)、ヘスクリスト(スペイン語)等というように、各言語で呼ばれています。

 

  呼び方は違っても、同じ神の御子をさしているのです。十字架にかかられた同じひとりの主をさしています。

 

  ベツレヘムでダビデの子として生まれ、生贄の神の子羊として十字架で血を流し、聖霊のバプテスマを授けるお方、神が天から地に遣わされた神の子羊です。

 

  あらゆる言語で呼び名は違っても同一人物であり、ひとりの「主」を呼んでいるのです。主は、天地万物を造られた創造主である、父なる神が遣わされた神のひとり子、神の子羊です。

 

  父なる神は、万物を造られた全知全能の神であり、すべてのものを生み出された、すべてのものの父です。主イエス・キリストの父であり、イエスの主でもあるお方です。

 

  ダビデ王は言っています。

  「主は私の主にいわれた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

 

  「私の主」とは、地上に降りて来られるイスラエルの神、人のかたちで現れユダヤ人に寄り添うメシア、主イエスをさします。

 

  人の子としてイスラエルに現れる前は、イスラエルの神として、エジプトから連れ上り、カナンの地(現イスラエルの地)に導き入れ、イスラエルを建国された霊なるお方でした。

 

  イスラエルの神は、ご自分の民イスラエルとともにおられました。このイスラエルの神が肉体を持つイエスとなられたのです。

 

  人の子イエスは、イスラエルの神としてではなく、ユダヤ人の王としてユダヤ人の間を歩まれました。生贄の神の子羊として贖いのわざを完了された後は、ユダヤ人のみならず、異邦人にも救いの御手を伸ばされました。

 

  やがて「イスラエルの王」として、天から再びエルサレムに来られるのです。イスラエルの王は、神の民ユダヤ人を救うために、また、キリストのしもべ、主の民を集めるために来られ、千年の間、イスラエルの王として、全地を治めるのです。世界の国々はイスラエルの王、キリストに統べ治められます。

 

  ダビデが言う、「主」とは、イエスの父なる神のことです。イエスの主である父なる神は、ダビデの主イエス・キリストにいわれました。父なる神は、イエスの敵である悪魔がイエス・キリストのかかと(ヤコブつまりイスラエル。イエスがキリストであることに目覚めたユダヤ人の信仰)によって征服されるまでは、わたしの右の座に着いていなさい、とイスラエルの王である、キリストに命じておられます。

 

  信仰は、一つです。信仰は、父なる神に従順な御子イエス・キリストの信仰だけです。人はそれぞれ、自分の信仰だと思っていますが、信仰はただ一つです。

 

 「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」と聖書にあります。

 

  イエスが十字架で「完了した」と大声で叫んで、息を引き取ったとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が揺れ動き、岩が裂けた、との記述があります。

 

  この時、天の聖所が開かれ、地上の幕屋から天の聖所の時代に移行したのです。旧約聖書の教えの中にいる神の民ユダヤ人の古い革袋は裂け、異邦人をも救う主の民(イエスを主と告白する民)の新しい革袋(新約聖書と教会)が現れたのです。

 

  それで、旧約の割礼と律法を守ることは、異邦人には課せられませんでした。無割礼の異邦人がユダヤ人の戒律を守らなくても、イエス・キリストの与えた新しい契約、御霊を受けることによって主の民となり、神の契約の民イスラエルとともに救いの恵みに与かるのです。

 

  また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒達のからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた、とあります。

 

  イエスが墓から復活のからだで甦られた後に、墓に眠っていたユダヤ人の多くが生き返ったようです。

 

  イエスは、復活のからだで弟子達に現れ、使徒達の見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた、と昇天の様子も記されています。このときの雲が、墓に眠っていて生き返ったユダヤ人の魂だと私は考えます。

 

  死に捕らわれた者をとりこにし、多くの捕虜(墓から生き返ったユダヤ人、つまり、イエスが死とよみに下って死に勝利し、悪魔から分捕った魂)を引き連れ、神のもと、高き所に上られた主イエスは、イエス・キリストを信じる人々に賜物を分け与えられたのです。

 

  バプテスマは一つです。水のバプテスマを授けたのは、イエスの弟子であって、イエスご自身ではありませんでした。イエスが授けるバプテスマは、聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマによって、御霊をひとりひとりに分け与えられるのです。

 

  イエスを信じる者は、聖霊のバプテスマを授けられ、イエスから受けた御霊によって「アバ、父」というイエスの信仰をいただき、神の御前で永遠に生きる神の子とされます。

 

  からだは一つ、御霊は一つです。キリストを頭(かしら)とするキリストのからだなる教会は、一つ御霊によって、平和の絆で結ばれて御霊の一致を保ちます。

 

  信仰とは、御父を慕い神に従順な御子イエス・キリストの信仰です。御霊によって「アバ、父」と呼び、唯ひとりの父なる神、主を礼拝し、霊と真による天上の礼拝を献げる、父と一つである御子イエス・キリストの信仰があるのみです。

 

  多くの苦難によって研ぎ澄まされ、そぎ落とされ、イエス・キリストの信仰がひとりひとりのうちに根を張り、成長し、実を結んで行くのです。。

 

  ヨハネの信仰、ペテロの信仰、パウロの信仰等、様々な人の信仰がありますが、それぞれ主イエスから分け与えられた信仰であり、それらが一つとなってキリストのからだは完成するのです。

 

  聖徒達の信仰は神の御子キリストの信仰であり、彼らは神の子として、永遠に神の御国を相続するのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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