ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

新しい歩み

 

  「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私達は皆、その死(キリストの十字架の死)にあずかるバプテスマを受けたのです。

 

  私達は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私達も、いのちにあって新しい歩みをするためです。

 

  もし私達が、キリストに接ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

  私達の古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私達がもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私達は知っています。

 

  死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私達がキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることになるのです。

 

  あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって、生きた者だと思いなさい。」と、パウロは言います。

 

  人は皆、最初の人アダムの中に居て、善悪の木の実を食べ、霊に死にました。全員が死人なのです。誰ひとり神に義とされる者はいません。すべての人が死に向かって生きて来ました。肉体は朽ちて行きます。肉体の命は限られています。

 

  人の向かう先にあるのは、死でした。どうもがいても、死から逃れることは出来ません。必ず、死ぬのです。

 

  アダムは死人です。死人の子らが世に生まれては死んで行きました。

 

  神には計画がありました。エバを惑わし、善悪の木の実を食べるようにそそのかした蛇である悪魔を滅ぼし、悪魔に用意した火の池と死と滅びの呪いから人の子らを救い出す、という計画です。

 

  その救い出す者として、神のひとり子を立てて、人の子として地上に生まれさせ、この人の子によって、悪魔の頭を踏み砕くことです。

 

  神の御子は、神の子羊イエスとして、神が御自身のために造られたユダヤ民族に遣わされました。

 

  人の子は、イエスという名のユダヤ人であると同時に、すべての人々を内在させる第二のアダムでもありました。

 

  アダムが善悪の木の実を食べたことで、アダムのうちにあってすべての人がアダムの中で善悪の木の実を食べたように、人の子が十字架にかかって罪に死んだことで、人の子のうちにあってすべての人が人の子の死をともにすることになるのです。

 

  すべての人にこの救いは成就しています。しかし、受け取る人はわずかです。

 

  イスラエルの民が荒野をモーセに導かれているとき、神とモーセに逆らう民を怒り、激しい蛇を送りました。神から送られた蛇は民に噛みつき、イスラエルの多くの人々が死にました。

 

  モーセが民のために祈ると、主はいわれました。「あなたは燃える蛇(青銅の蛇)を作り、それを旗竿の上につけよ。すべて噛まれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」

 

  モーセが一つの青銅の蛇を作り、それを旗竿の上につけると、神のことばを信じて青銅の蛇を仰ぎ見る者は、蛇に噛まれていても神のことば通り、生きた。

 

  神のことばを聞かず、青銅の蛇を仰ぎ見なかった者は、蛇に噛まれて死んだのです。

 

  神が、神の子羊として天から遣わされ、贖いの十字架の死につけられた人の子を仰ぎ、主と告白する者は、生きるのです。しかし、人の子の死を嘲笑う者、信じない者は、いのちの恵みにあずかることはありません。

 

  広く全世界の人々のために現されているキリストの十字架のわざも、信じる人にとって有効となるのです。

 

  世の人々は皆、善悪の木の実を食べた人です。アダムの子です。

 

  しかし、神はいのちの木の実を食べる人の子を地上に遣わされました。十字架にかかられた人の子とともに、十字架にかかった者は人の子にうちにあって、いのちの木の実を食べる者とされるのです。

 

  パウロは言います。

  「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

  キリストを信じる者は、もはや善悪の木の実を食べた古い人ではありません。人の子のうちにあって、罪に死に、御霊をのむ者とされたのです。

 

  人の心の中を知っておられる神は、神の契約の割礼を受け、モーセの律法を守るユダヤ人の弟子達に与えられたと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、無割礼の異邦人も救いにあずかるという証を、異邦人のためにされたのです。

 

  ユダヤ人と異邦人に何の差別もつけず、キリストを信じる異邦人の心を、その信仰によってきよめてくださるのです。

 

  ユダヤ人の弟子達が主イエスの恵みによって救われた、と信じているのと同じように、異邦人も主イエスの恵みによって救われるのです。

 

  人の子イエス・キリストとともに善悪の木の実の呪いに死んだ者は、自分の知恵に頼らず、神の知恵を求めます。神のことばを慕い、神を仰ぎます。

 

  人の子イエスに接ぎ合わされている者は、この世の人々の中にあって、この世に死んだ者です。御霊をのみ、御霊によって教えられ、神の霊によって導かれ生きる者は、キリストの復活のいのちを生きる者です。

 

  キリストの御霊によって新しく生まれた人は、天上の生き方、神を中心とした生き方をスタートするのです。

 

  もはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦った方、キリストのために生きるのです。そして、人間的な標準でキリストを知ろうとはしない、と心に決めます。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

 

  誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

  新しい歩みが始まるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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