ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の働き

 

  十字架にかかる以前に、イエスは弟子達にいわれました。

 

  「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

  その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることが出来ません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 

  わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

 

  いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

 

  その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

 

  わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

 

  イエスは、ご自分が十字架で屠られる神の子羊であることを語っておられました。父なる神がイエスを生贄の神の子羊として、地上に遣わされていたのです。

 

  神の御子であり、人の子として地上に遣わされたイエスは、人々の罪を贖い、人々の罪を赦すために来られました。天上のことを知らず思いが覆われたユダヤ人に、天上のことを話されました。

 

  イエスを遣わされた御父について、永遠のいのちについて、神の御国について伝えたのです。イエスは十字架で死んで、甦り、永遠に生きます。そして、父なる神のもとに帰られました。

 

  イエスは、人々の罪を身代わることで、罪の結果である死の呪いから救い出し、キリストとともに生きる道を人々のために設けられました。

 

  十字架で死んだ主イエスを神の御子キリストだと信じる人々は、神の子羊イエスのうちにあって、ともに罪の処罰を受け、死の呪いから解放されて、復活の子となるのです。

 

  復活の子は、父なる神のもとに帰り、キリストとともに永遠に生きるのです。

 

  神の御子は、神のことばです。神から遣わされ、神のもとから来た神のことばです。イエスのことばを守る者は、神のことばを守る者です。神は、神が遣わした神のひとり子イエスを愛する者を愛されます。

 

  父が愛されるその人をイエスも愛し、イエスがその人に現れ、世に隠されているご自身を現されます。

 

  イエスを信じても、イエスのことばを守らない者は、自分自身を愛しているのであって、イエスを愛していません。イエスを愛する者は、イエスのことば、即ちイエスを遣わした父のことばを守るのです。

 

  世は、神に敵対する悪魔の支配下にあり、闇に生きる世の人々は、神を知らず、神が遣わされたイエスを見ることはありません。

 

  しかし、神が天から遣わしたキリスト・イエスを見る者、知る者は、神に覚えられ、キリストの御名によって地に送られた真理の御霊の助けを受けるのです。

 

  人々を死と滅びから救い出し、永遠に生きる神の子とするためのもうひとりの助け主は、父なる神が御子イエスの名によってお遣わしになる聖霊です。

 

  聖霊は、イエスを信じ愛する者に御霊を与えます。御霊はその人のうちに住まわれ、すべてのことを教え、イエスのことばを思い起こさせてくださいます。

 

  真理の御霊は、すべての真理に導き入れます。御霊は、神から聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることを示されます。

 

  御霊は、神が私達に永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子イエスのうちにあることを確信させてくださいます。

 

  信仰は人からは出て来ません。信仰はイエスのものです。真の神を信じる信仰は、御子イエスによって与えられるものです。

 

  生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは人間には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません。

 

  神の御心のことは、神の御霊のほかには誰も知りません。御霊はすべてのことを探り、神の深みまで及ばれます。うちに住まわれる御霊は、人の思いを探り窮め、神の御心に従って、聖徒のために執り成しをしてくださいます。

 

  御霊は、弱い私達を助けてくださいます。私達は、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私達のために執り成してくださいます。

 

  キリストを信じる者は、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それで、人の知恵に教えられた言葉ではなく、御霊に教えられたことば、つまり、御霊の体験と示しによって、御霊を知るのです。御霊のことは、御霊の体験と示しや癒しや奇跡等、御霊ご自身の働きによって、理解するのです。

 

  かつての幕屋で、献げ物と罪のための生贄が献げられましたが、礼拝をする者の良心を完全にすることは出来ませんでした。

 

  滝行をしても、修行を積んでも、念仏を唱えても、人間の良心は完全になることはありません。赦されていない原罪(神のことばから外れている、的外れな存在)に絡まれているからです。清めても清めても汚れが湧き出てきます。何故なら、良心そのものが聖いものではないからです。

 

  しかし、神の子羊イエスの贖いの血の注ぎを心に受けた者は、邪悪な良心を聖められるのです。からだを聖い水で洗われた者はなおさらです。

 

  自分の力ではどうしても、除くことの出来なかったものが、気がついたら自分を縛る効力を失っていることに気づきます。

 

  イエスに目を向け、御霊のことばに心を傾けているうちに、捨てることの出来なかったものに、別れを告げる自分を見出します。関心事が、世のものから御霊のものに移し変えられて行くのです。

 

  「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者も皆、そのとおりです」と聖書にあります。本人の努力や熱心ではなく、御霊の熱心によって造り変えられた自分に気づくのです。

 

  御霊は、信じる者のうちにあって、いまも働いておられます。それは、信じる者が皆、人の子(十字架にかかった神の子羊イエス)にあって永遠のいのちを持つためです。