ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

主人は誰か

 

  イエスは、人の子としてイスラエルに遣わされました。

 

  イエスは、天の父なる神から、地上に遣わされた神のひとり子でした。

 

  イエスは、父なる神が天地万物を造られた時、父とともに創造された神でした。

 

  人は、神のひとり子の喜びのうちに、塵から造られ神の息が吹き入れられて生きる者となりました。

 

  人は、神に似せて造られた、被造物を治める者、被造物を支配する者でした。

 

  人は、神のことばである神のひとり子とともにありました。

 

  人は、他の被造物とは異なりました。神の御思いを知る者です。神の心を心として生きる者です。神の心をもって、被造物を治める任務を与えられている者です。

 

  他の被造物のように、いのちの喜びを表すだけではいけません。安息しているだけではいけません。土地を耕し、管理し、守る務めがありました。

 

  何故、管理者が必要だったのでしょうか。人や被造物は知らないけれど、神に敵対し、神のひとり子を憎む悪魔の存在があるからです。

 

  悪魔は、神に反逆した天使長でした。神に仕える天使長が、御子を妬み、神に逆らって、神の敵対者となり、天から堕ちて、悪魔と化したのです。

 

  悪魔は敵対者であり、破壊者です。神のご主権を踏みにじり、権威を主張します。

 

  悪魔は、神になりたいのです。すべてのものの上に立ちたいのです。神のひとり子の存在は、悪魔の心を荒れ狂わせます。憎しみと怒りですべてを破壊していきます。

 

  神のひとり子に関わるものを踏みにじります。御子の神格も権威も主権も否定し、御子の輝きを輝かせないように、栄光を奪い去るために、渾身の力を込めて働く者です。

 

  人が造られた時、すでに悪魔は存在していました。人は、神のひとり子に敵対する悪魔の存在のことを知りませんでした。

 

  神のひとり子は、神のことばと呼ばれ、神とひとつのものでした。神のうちに矛盾はありません。神のことばは、神とともにあり、また、人とともにありました。

 

  神のことばのうちにいるものは、御子のうちにいるものでした。

 

  「善悪の木の実を食べてはならない。それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ」というのは、神のことばです。神のことばのうちに居る者は、神のことばを守ります。神のことばに従う者は神の奴隷です。

 

  「それを食べる時、目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる。あなたがたは決して死にません」というのは、悪魔の言葉です。神に敵対する者の言葉です。悪魔の言葉に従う者は、悪魔の奴隷です。

 

  人は、主人ではありません。人は、主人になることは出来ません。神の奴隷であるか、悪魔の奴隷であるかのどちらかなのです。

 

  奴隷は、主人に支配されます。

 

  塵から造られ、神の息を吹き込まれた人は、神の御子のうちにある者でした。神のことばとともにありました。主人と奴隷の関係ではなく、神のことばの現れだったのです。

 

  神が、人に被造物を支配するように命じられたとき、人は被造物の主人となりました。人は、被造物を支配する者となったのです。神のことばの現れだった人が、主人の働きを担う者となりました。しかし、本当の主人ではありません。

 

  本当の主人は、神であり、神の御子なのです。人は、主人に雇われた雇い人です。支配は任されていますが、権限は神にあるのです。被造物が雇い人を、神に訴えれば、主人である神は被造物のために正しいさばきをされます。人も被造物もみな、神が造った神のものだからです。

 

  神が全ての被造物の主人なのです。人は主人によって、被造物を管理するリーダーに任命されただけで、主人である神に仕える者です。人は神の奴隷です。

 

  しかし、人は、奴隷であるのに、主人を選ぶ自由意志を持っていました。神に似せて造られていたので、ただの奴隷ではありませんでした。

 

  ひとりの人であったとき、神のことばの中にありました。神が食べてはならない、といわれることばに、そのまま従うことが出来ました。神のことばのうちに居るので、疑うことも逆らうこともありません。神のことばがそのまま、人のあり方でした。地上に来られたイエスが父のことばの中にあり、父とひとつであったのと同じ状態でした。

 

  人が、アダムとエバに分けられると、二つのものになりました。ひとりの人であるときには起こらなかった二つの意見が人を新たなあり方へといざないました。

 

  人がひとりのときは、神のことばと一つでした。アダムとエバに分かれると、アダムとエバが一つになることが必要となります。神のことばのうちに分裂や不一致は無いからです。

 

  神のことばは、神とひとつです。神があるだけです。悪魔が混じり込むことはありません。神のことばと一つであれば、人は神とひとつです。しかし、人のうちに混乱があると、神のことばと一つにはなっていないのです。その場合、人は神とひとつでは無いということになります。

 

  神とひとつでは無いということは、もうひとりの主人、神の敵対者の悪魔が入る隙があるということです。

 

  アダムとエバの間には、異なる意見がありました。善悪の木の実を食べてはいけないという、神の命令の真意を知りたいエバと、神のことばをそのまま受けて従うアダムは、神のことばに対する捉え方が違いました。

 

  アダムは、ひとりの人であったときから、神のことばのうちにあり、神のことばは呼吸のように、アダムにとって当たり前のもので、考えるものではありませんでした。

 

  エバは、神のことばを呼吸としてでは無く、命令として捉えました。アダムに支配される立場のエバにとっては、ことばは自分を規制する命令に感じたのかも知れません。

 

  神のことばに対する疑問に、蛇が答えを与えました。これをアダムが聞いても、動じなかったのでしょうが、エバは違います。アダムの支配から自由になりたいエバは、神のことばからも自由になりたかったのです。

 

  蛇が語る悪魔の言葉のほうが、エバを自由にしてくれるものに思われました。エバは悪魔の言葉に従い、悪魔の奴隷となったのです。悪魔の奴隷は、神の奴隷に自由と解放の喜びを伝えます。アダムはエバにその自由を手渡されました。アダムも自由を食べ、悪魔の奴隷となったのです。

 

  神から自由になったと思ったアダムとエバは、神のうちにある本当の自由を手放し、悪魔の奴隷となったのです。

 

  悪魔は、奴隷となった人を、闇に閉じ込め、死に追いやるのです。

 

  神の奴隷は、義の奴隷であり、永遠のいのちで安息します。しかし、悪魔の奴隷は、罪の奴隷であり、報酬は死と滅びです。