ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

アダムとエバ

 

  神は、被造物を守り、管理する支配者として、人を造られました。

  神(父なる神)と、神のことば(神のひとり子)によって、創造されました。

 

  ひとりの人が、エデンの園に置かれたのです。彼は、土の塵で造られていました。神のことばとともにありました。

 

  すべての神の被造物である生き物を支配するように、神に命じられていました。そのような、神の命令を受けたのは、被造物の中で、人だけでした。

 

  人は、どの種の生き物にも、どのような被造物にも心を配らなければなりません。自分だけ良ければよいという生き方は許されません。すべてのものに気を配らなければならないのです。

 

  他の生き物は、それぞれの種に応じて、与えられた場所で用意された食べ物を食べて生きています。他の種に対して、責任を負っていません。

 

  人は、様々な生き物が食べるそれぞれの食べ物をどれでも食べることが出来ました。そして、人はすべての生き物に食べ物がわたるように、食べ物の種類が偏らないように、すべての生き物が生きていかれるように、土地を耕し、管理しなければなりません。

 

  「生めよ。増えよ」と祝福された生き物は、神の祝福を受けて数が増していきます。それぞれの種は仲間が増えて、にぎやかになっていきます。しかし、人はひとりです。

 

  人は、神のことばに忠実に仕え、神に命じられた通り、土を耕し、生き物の食べ物を用意し、守っていました。人はみなのものを支配する働きがつらいとか、嫌だとか思っていたわけではありません。働きを休み、他の生き物のように、自由に楽しく生きたい、と思ったわけでもありません。

 

  人は、神に似せて、神のかたちに創造されていたのです。他のものを顧みる慈愛の心がありました。すべてのものに食べる物があり、安心して過ごしている姿を見ることに喜びを感じました。

 

  すべての生き物は、人の慈愛を受けて、人を支配者として敬い、互いの関係は良いものでした。人は神のことばとともにありました。神のことばの中にいました。神のことばの中で、すべての被造物は調和していました。

 

  すべての被造物の支配者である人が、神のことばのうちを歩んでいたので、すべての被造物も神のことばの中にいました。

 

  神は人に、園にある木について、園のどの木からでも思いのまま食べて良い、といわれ、人に何の拘束もされませんでした。人は、エデンの園で支配者であり、すべてのことが人に任されていたのです。

 

  ただ一つ、エデンの園にある、善悪の知識の木の実を取って食べてはならない、とだけ命じられていました。たくさんある園の木々のうちの、たった一本の木です。その一本の木以外のどの木からも、思いのまま、好きなように、自由に食べても食べなくても良いのです。

 

  たったそれだけの禁止事項でした。その一本の木以外のことは、人の思いのままに任されていたのです。

 

  何でも思いのままにさせてくださる神の大きなふところの中で、人も生き物の喜びとともに、園の美しさを造り上げる楽しさと、自然の豊かさを堪能していました。

 

  神のことば(神のひとり子)は、支配者である人が支配する働きを共有する唯一のものであり、人は信頼していました。神のことばに支えられ、助けられ、守られていました。

 

  しかし、生き物の数が増えていくと、人の働きも増えて行きました。彼には、共に働く人がいません。ひとりで担っていました。

 

  「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と、神である主は仰せられました。

 

  神は、彼に深い眠りを下されたので、人は眠りました。それで、神が造られた人のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。

 

  神は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げて、その女を、あばら骨を取られそのところの肉がふさがれた人の所に連れて来られました。

 

  自分の骨と肉から造られ、自分とかたちが似た女を、男は大層喜びました。他の生き物とは違います。自分と同じ種類の人です。

 

  ひとりの人は、男と女の二人に分かれて、互いをアダムとエバと呼びました。アダムとエバは、夫と妻となり、一体の人となりました。

 

  ある牧師は言われます。

  「男のあばら骨から取られた女は、男のハートである。男はこの時、感情の部分が女に持って行かれた。それ故、男は理論的思考になってしまう。女は、男の方に理論的思考を残したまま造られたので、感情表現は豊かだが、理論的な説明は苦手である。」

 

  「女は、食べ物を食べて美味しい、と表現したり、美しいものを見て、綺麗、と自分の感じたままを表現するが、男は、そういう表現は苦手である。男も、美味しい、美しい、と感じてはいるが、そういうことをあえて表現することだとは感じていないからである。」

 

  「女は、直観力にすぐれている。男は、女に直観力を持って行かれたので、鈍い。男が気づいた時には、女はとっくにわかっている。」

 

  「女は、すぐれた直観力で物事を捉え、男に言うが、男には女の言っていることがわからないし、理論的根拠のないものを信用できない生き物である。男は、色々考え、確信が生まれた時に、女が直観力で捉えていた事柄に辿り着く。」

 

  「女にとっては、何でわからないの!と苛立つし、男にとっては、根拠のないことをよくもやすやすと信じ込むものだ、と軽視します。」

 

  「しかし、女の直観力は侮れない。結構、核心を突いていたりする。だから、ハートの感情部分や直観力が女に取られてしまった男は、理論を重んじるプライドに縛られないで、女の直観力を尊重することが大切である」とも、言っておられます。

 

  ひとりだった人は、男と女の二種類に分かれた時に、それぞれの特性に分けられて、自分のうちには無い、相手の特性を理解し、それぞれの欠けを補うようにされたのですね。

 

  自分が正しい、自分と同じでなければならない、となると、傷つけ合い、争うことになります。もともと、「人」という同じ種の生物ですが、男と女では、構造も特性も違うもののようです。

 

  互いの特性の違いを理解して、互いの特性を生かしながら、助け合うことが大切なことのようです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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