ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ひとりの人

 

  神が人を創造されたとき、人はひとりでした。

 

  「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と、神は仰せられました。われわれとは、父なる神、子なる神、聖霊の三位一体の神のことです。

 

  永遠の昔からおられる神はひとつにして三つの神、三つにてひとつの神でした。この三位格には、交わりがあり、調和があり、愛がありました。父なる神が統べ治め、ひとつの心で結ばれ、この神に、天使が仕えていました。

 

  神は、支配者であられ、創造者であられ、ことばを語り、目で見、耳で聞き、感じる心があり、感情と想像力、慈愛を持ってすべてを治めるお方です。意志と計画をもって働かれる霊なる方であり、絶対的主権者です。

 

  神は、すべてのものの上に立つ、全能者であり、全知全能の神です。全き聖と全き愛と全き義なる、大いなる神です。

 

  この神が、唯一、御自身のかたちに創造したのが、人でした。神は、人に特別な思いを持っておられました。人は、神の御思いを受けて、働く者でした。

 

  人には、知的思考力と神と似た精神性と意思的行動力がかたち造られていて、すべての被造物を支配する能力が備わっていました。神のことば(神のひとり子、子なる神)とともに、被造物を支配することが、人が造られた目的だったからです。

 

  神のうちには愛があります。御使い(天使)は神に仕える者であって、神の愛の交わりの中で神と交流する者ではありません。

 

  しかし、神に似せて造られた人は、神の交わりの中、神の愛の中で、神と自由に交わる特権が与えられていたのです。人よりもずっと以前に生れている天使が入ることが許されていない、神との自由な交わりに、神の家族の一員として入ることが許されていたのです。

 

  何故なら、人は、神のひとり子、御子のために造られたからです。父なる神が、御子のために、御子とともに創造されました。人は、御子の喜びでした。

 

  エデンの園に置かれた人は、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するために、働きました。エデンの園を耕し、そこを守りました。

 

  神である主は、土から造ったあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を人のところに連れて来て、人がそれにどんな名をつけるかを見られました。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となりました。

 

  こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけましたが、人にはふさわしい助け手が、見当たりませんでした。

 

  それで、神は人を眠らせて、人からもう一人の人を造られました。人は男と女に分けられました。男と女は、アダムとエバと名付けて呼び合いました。アダムとエバは、同一の人でした。しかし、二つに分かれると、それぞれの特性を持つ人となりました。

 

  アダムとエバは、夫と妻となり、一体のものとなりました。二つでひとつのもの、ひとつでありながら、二つのものです。

 

  霊なる神は、三つにてひとつの神、ひとつにて三つの神であることに、なんらの矛盾はなく、完全なる調和があります。

 

  しかし、土の塵から造られた人は、完全な霊の存在とは違います。神に似せて造られてはいますが、神ではありません。神のかたちであって、神ではありません。神から、すべてのものを支配する任務を仰せつかっていますが、人は、主権者ではありません。

 

  ひとりの人は、神のことばとともにあり、神の御顔を仰ぎ、被造物すべてとともに神の創造のわざを喜び楽しんでいました。人の心は、聖なる神と一つ心でした。神のことばのうちにあって、平安がありました。神の義と平和と聖霊による喜びがありました。

 

  ひとりの人から、女が造られると、人は大いに喜びました。「これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉。これは男から取った者だから、これを女と名付けよう。」

 

  アダムは、自分と同じものが現れて真の助け手を得ました。同じ心、同じ立場で思いを共有できる、もうひとりの自分です。

 

  神の御子が、人を創造したとき喜んだように、アダムはエバを喜び、こよなく愛しました。アダムはエバを得て、関係性を学ぶこととなりました。

 

  アダムはエバを自分のように愛し、守り、治めることを学びます。エバが従う姿を見て、このように従うと支配する者は嬉しいということを知ります。支配者から見た、従う者の在り方をわきまえて、人のかしらである神のことば(御子)に対する自分の従い方を学びます。

 

  しかし、アダムは、自分を造られた、人のかしらである方以上に、自分の身から造られたエバを愛してしまいました。

 

  自分の胎に宿り、育っていく実感をし、自分から生まれ出た子どもを、わが骨の骨、わが肉の肉、自分の分身のように思ってしまう母親に似ています。現在では、夫が妻をわが骨の骨、わが肉の肉、と思うことはまずないでしょう。

 

  ひとりの人は、神のことばとひとつであり、神のことばのうちにありました。しかし、アダムはエバを得て、神のことばよりもエバを愛し、神の声よりもエバの声に従ってしまいました。

 

  アダムはエバとの間に愛と安らぎがあると勘違いしていました。初めから、神のことばの中にいて、神のことばの外に出たことの無い人は、神のことばの中に愛と安らぎがある事を理解していませんでした。

 

  エバと一緒にいたいと思ったアダムは、エバを選び、神のことばを退けて、神のことばから外れました。神と繋がっていた凧の紐が切れて、悪魔に連れ去られた凧のようです。

 

  人という凧は、そのものにいのちがあるわけでは無く、いのちの神と繋がることで、悠々と神の被造物を楽しみながら、神の愛の風に吹かれて、安らいでいました。しかし、いのちの神から離れてしまうと、自分がどこに居るのか、どこに向かうのか、何のために居るのか、わからず、あてのない者となってしまいました。

 

  神のことばから外れたアダムとエバには、死が入り、不安と恐れが大きくなりました。愛も安らぎも、かげろうのようです。確かなものではありませんでした。確かなものは、神のことばの中にあったのです。

 

  終わりの時代、神は、神のことば(神のひとり子)を人の子イエスとして、地上に遣わされました。イエスを信じて、神のことばの中に入る者を、非常に良いと仰せられた「ひとりの人」に回復されるのです。

 

  しかも、塵のからだで回復するのではなく、御霊により、信仰によって新しく生まれさせて、霊のからだを与え、神の御子とともに神の国を相続する神の子としてくださるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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