ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地に置かれた真理の光

 

  天は神の御住まいです。

 

  地は、神のことばから外れた被造物が命を繋ぐ場所です。

  地球は、神のことばから外れた被造物を、神のことばに従うものに回復するために、被造物を再生する場として設けられた星です。

 

  地球に置かれた恵みは、悔い改めと赦しの機会が用意されていることです。

 

  天にあるのは、真理の光。地は、真の光の影です。影ですから、ぼんやりとしてしか見えません。

 

  地の光は、太陽であって、霊や魂を照らす光ではありません。人は、太陽の光によって映し出される現象の世界を頼みとして、生きます。しかし、この光には、夜が訪れます。現象は、闇に隠れ、そこに存在しないもののようになります。

 

  目に映るものが確かなものであって、目に映らないものは存在しないものだと、人は錯覚します。

 

  闇の中には、何も無いのでしょうか。何も存在しないのでしょうか。昼の光の中では、確かにそこに存在するものがあったのです。だから、そこにはたとえ光に映し出されなくても、存在しているはずなのです。

 

  人は、女から生まれ出る前に、すでに霊の目は閉じたままです。霊の目は闇の力に閉ざされたままです。人の霊は、闇の中にいます。闇ですから、何も見えません。何も見えないから、何も無いと思うのです。

 

  人は、神に造られた時、真理の光の中にいました。人の霊の目は、開いていたのです。すべての被造物に映し出される神の栄光を見ていました。また、神ご自身の栄光を見ていたのです。人の目は健全でした。

 

  モーセがシナイ山で、神である主から律法を受け、二枚のあかしの石の板を持って山から下りて来た時、モーセの顔の肌は、光を放っていました。モーセは、主と話したので、自分の顔の肌が光を放っているということを知りませんでした。

 

  アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見ると、モーセの顔の肌が光を放つのを見て、その聖なる姿に恐れて、モーセに近づくことが出来ませんでした。

 

  モーセが彼らを呼び寄せ、主がシナイ山でモーセに告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。モーセは彼らと語り終えたとき、顔に覆いを掛けた、と出エジプト記に書かれています。

 

  神と顔と顔を合わせて交わっていたアダムとエバも、光り輝いていたことでしょう。彼らの目には、はっきりと神のご栄光が映し出されていたのです。

 

  しかし、神の命令を破り、神のことばの外に外れたアダムとエバは、エデンの園から追放され、影の世で生きるものとなりました。真理の光を失いました。時間が経過するとともに、真理の光を見る霊の目の機能は働きを止め、機能しなくなった霊の目は閉じてしまいました。

 

  神が警告されていたように、善悪の木の実を食べたときから、人は真理の光である神と神のことばを失い、霊の目の光を失いました。

 

  風のように働く聖霊の働きも見えなくなり、神のことばを聞くことも出来なくなりました。「善悪の木の実を食べるそのとき、必ず死ぬ」といわれた神のことば通り、人は死人となったのです。

 

  アダムは、死人の意味が分かっていませんでした。人は死んで、神が見えなくなりました。神のことばが聞こえなくなりました。神は存在しているのに、見ることも聞くことも感じることも出来ない、全く通じ合わない、無の存在となってしまったのです。

 

  今まで、そばにいて当たり前と思っていた、愛の存在であった方を見失ってしまったのです。その方を見るとき、心は喜びに溢れ、心の芯まで温かく、優しく、平安でした。

 

  神の愛と平和の中で生まれ、守られていた世界に終わりがあるとは思いませんでした。その世界がアダムのすべてであり、存在する環境でした。神を失ったら、アダムを取り巻いていた環境までが、夢から覚めたように、幻となったのです。

 

  厳しい環境に身を置くと、エデンの園はゆめ幻となって、アダムの記憶の彼方に潜んでしまいました。

 

  この世の君の悪魔は、捕らえたアダムとエバの意識を、神の意識から悪魔の意識に塗り替えました。アダムの意識は、厳しいこの世が現実で、神と過ごしたエデンの園ははかない幻想であると、捉えました。

 

  しかし、人は、神に似せて造られています。神は、人に永遠を想う思いを与えておられます。悪魔は、神の存在に気づかないように、人に、偽りの光を与え、偽りの光を慕う心にすり替えていきました。

 

  アダムの子らは、真の光の影であるこの世で、遥かかなたに微かに見えるぼんやりとした光を探求し、不完全な知識と知恵にすがりました。

 

  神のご計画は、地で働き始めました。最初に、アブラム(アブラハム)を選び、彼と契約を結びました。そして、アブラハムの子イサクの子孫、イスラエル民族を地上に造られました。

 

  神は、モーセと顔と顔を合わせて語り、モーセは神の栄光を見ました。イスラエル民族は、神の人モーセを通して神の祭司の民としての歩みを始めました。

 

  神は、アブラハムに与えた地に、ユダヤ民族を住まわせ、イスラエルの国を建国されたのです。彼らは、この世の光でした。真理の光に仕える民だったのです。

 

  神は、この国イスラエルに、神のひとり子を遣わされました。人を創造した神です。神自らが、肉体を持つ人の子となって、女から生まれました。

 

  人の子は、アダムの罪の償いをするために用意された神の子羊イエスでした。アダムの罪が、生贄の子羊の血で贖われると、アダムの子らの罪は赦されるのです。

 

  イエスは十字架にかかり、アダムの罪は赦されました。アダムは罪の呪いから解放されたのです。死と滅びの呪いに閉じ込めた、偽りの神である悪魔(神の敵対者)の手から救い出されたのです。

 

  救い出された人の子らは、闇の世を神のことばを足のともしびとして、キリストが与えた御霊とともに歩みます。彼らには、帰るべき場所があります。人の子を造られた父なる神のもとに向かって歩みます。

 

  イエス・キリストが真理の光です。世から救い出す救世主です。闇の世に真理の光がやって来たのです。真理の光は、この世に神の国を与えられました。神の国は、聖霊によって明らかにされました。

 

  御霊に教えられる人の子らは、神の知識、完全な知識を得て、いのちの歩みをします。彼らにもはや死はありません。永遠に生きるのです。御霊は、癒し、しるし、示し等によって、神の国を証されます。キリストを知る知識によって、神の国の訪れを知らせます。

 

  真理の光は、キリストを信じる者のうちにおられる御霊です。御霊を宿す者は、世に真理の光を放って行くのです。

 

  キリストを信じない者は、真理の光を拒み、偽りの光の中で楽しみます。そして、土の塵によって造られたアダムの子は、土に返るのです。アダムの子らの魂は、地に下ります。

 

  キリストを信じて、御霊から受けた真理の光の中を歩んだ人の子のからだは復活して、真(まこと)の父のもとに帰り、彼らの魂は、天に上るのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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