「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
イエスは、十字架にかかる前、ご自分が父のみもとに帰る時が近づいたのを知り、もう世にいなくなることを知って、父なる神に、世にいる弟子達のために、父に祈られたのです。
「わたしは彼らと一緒にいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子(イスカリオテ・ユダ)が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」とも言っておられます。
父なる神が下さった御名とは、父なる神が名付けられた「イエス(主がともにおられる、という意味)」という名前のことです。イエスの名は、イスラエル中に広まり伝えられました。ユダヤ人の有力者や指導者や多くの人々に、忌み嫌われ呪われた名前です。しかし、救いを求める者達にとっては、慕わしい名前です。
イエスは「イエス」という名前を、「御名」と呼びました。名前とは言われませんでした。人間では無いからです。100%人の子でしたが、100%神の御子でもあるお方です。ただの名前ではありません。人々を救う聖なる名、裁き主である父なる神が油を注ぎ、神の子羊として、世に遣わされたキリスト(救世主)の御名なのです。
御名とは、神の神格を持つ、神のひとり子の名前なのです。
ペテロは言います。「この方(主イエス)以外には、誰によっても救いはありません。世界中で主の御名のほかには、私達が救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
世には、多くの宗教がはびこっています。それぞれに神があり、教祖がいます。信者達は、祈りを捧げる時にその名前を呼びます。彼らにとって大切な名前です。有難い名前です。信者達は、その名前を恐れます。
肉体をとって、この世に現存していないのに、今ここに居るかのように、恐れます。悪いことが起こると、その名前の方の怒りが原因ではないのかと恐れます。
信者にとっては、その名前が自分達を助け守るものなのです。しかし、真理を知るペテロは言っています。人々が救われるべき名は、世界中で主イエスの御名のほかは無い。人を救う力は、真(まこと)の神しか無い。人間にはその力も権限も与えられていない。
真理が語る救いとは、死と滅びのこの世から救い出す救いです。死から復活させ、永遠のいのちで生きる者とすることです。他の神々とは、次元が違います。
聖書の神は、土地の神ではありません。国の神でもありません。地球の神でもありません。宇宙全体を裁かれる、唯一まことの神なのです。
イエスは、父なる神が下さった「イエス」の御名の中に、イエスに従う弟子達を保ち、守られたのです。イエスに従う彼らに「イエス」の御名の力を着せ、彼らがイエスの御名で祈ると神の霊が働かれました。
悪魔さえ、イエスの御名に服従するのです。弟子達は言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私達に服従します。」
それに答えてイエスは言われました。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
イエスは、「イエス」の御名の権威を、イエスを信じる者達に与えられたのです。イエスの御名に、イエスが持っておられた神の権威と力があるのです。イエスを信じる者ひとりひとりに、イエスの御名が与えられています。
イエスが世の人々に憎まれたように、イエスの御名により頼む者は、世の人々に憎まれます。世は、イエスを憎み、抹消したいと思うからです。闇は光を憎みました。真理の光は、闇の中に居てほしくないものです。
世には、多くの神々、宗教が存在します。それらに統一性はありません。
イエスは、父なる神が下さった栄光(神の権威と力)を、弟子達に与えました。それは、イエスが彼らとともにおり、彼らがみな一つとなるためです。そのことによって、神がイエスを世に遣わされたことを、世が信じるためです。
イエスは、父なる神に祈られました。
「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らが皆一つとなり、彼らもわたしたちにおるようにしてください。
わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
キリスト教会には、多くの宗派や教派がありますが、同じひとりの人であるイエスの御名を呼ぶ者です。一つになるとは、教理を一つにせよ、ということではないと思います。すべてはキリストのからだです。一つ一つの教会は、キリストのからだの一部の器官の働きを担っています。みなが目ではありません。耳の働きもあれば、胃や腸の働き等様々な器官の働きによってからだは成り立っているのです。
イエスの御名によって一つなのです。どの教会でなされたことでも、イエスの御名が讃えられ、イエスの御名が崇められ、イエスの御名を高く上げることで、イエスを地に遣わされた父なる神が賛美されるのです。
どの宗派でも、どの教派でも、イエスの御名が語られます。イエスが父なる神に愛されたように、イエスの御名を呼ぶ者達も父なる神に愛されるのです。彼らは、イエスの御名によって一つとなります。彼らは、主イエスの民であり、キリストのからだなのです。
ばらばらで統一性の無かった他の宗教が、それぞれの神々の名前を持って連帯を組みます。イエスの御名に敵対し、キリストの民を憎むことで、一つとなる時が来ます。多くの神々の名前で立ち向かって来ます。
しかし、キリストの民は、ただ一つの御名、イエス・キリストの御名によって一つのものなのです。