ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神が用意された教会

 

  本部の教会の移転に伴い、小さな教会から本部の教会に移籍しました。やっと、その教会のメンバーになることが出来ました。大阪から始まって、十年掛かりました。

 

  心機一転で、教会生活に取り組みました。教会の神学校での学びは、合計で五年程になっていました。初めて東京の教会に来た時の十年前のメンバーは、ほとんど牧師や伝道師や宣教師になっていて、そこに残っている人はわずかでした。四年以上神学生でいる人は珍しいです。

 

  牧師が神に祈って、神から任命された人を牧師や伝道師や宣教師に任命していたのです。神が私を任命されないので、私は任命されません。私は、牧師や伝道師にしないようにと、神に祈り続けていました。

 

  軍隊のような教会になっていました。神の兵士を生み出し、霊の戦いをするのです。私も戦いの人なので、性に合ってはいますが、方向性が違うことに気づきました。イスラエルを正しく理解し、教え、また、預言や吟味や癒しや御霊の賜物を用いる教会です。私のビジョンと一致しますが、何かが違います。

 

  奉仕者の立場から教会を見ていましたが、羊の立場としてはかなりハードな教会です。小さな教会にいた頃からの延長で、礼拝に出かける前には、30分以上の祈りの時を持ってから教会に向かいました。

 

  教会メンバーも入れ替わります。賛美の時には、本当に心から主に向かい、主だけを見て賛美します。主が癒し主であり、主が慰め主です。

 

  ある月曜礼拝の日、朝出掛ける前にいつもの祈りをしていると、「今日、出なさい」とはっきりと威厳のある神の声がありました。

 

  小さな教会にいた頃からの祈りです。「いつ、教会を出たらいいですか」自分の意思で教会を出ると、その責任を自分で負わなければなりません。次の場所でまた同じ訓練を受けなければならないのです。今までの失敗で学習して来ました。

 

  神に従うのなら、神が責任を取ってくださるのです。今日ですか。わかりました。早速、教会を退会する旨を手紙に書きました。そして、いつも通り、月曜礼拝に出席しました。

 

  その日、牧師は奉仕に出掛けて不在でした。礼拝が終わると、副牧師に内容は言わないで、「この封書を牧師にお渡しください」と言ってあずけて出たのが最後でした。

 

  その頃、教会に来なくなる人が多くいました。私はその中の一人でした。さて、教会を出たもののどうしよう。教会探しが始まりました。

 

  二十年前のことです。イスラエルを正しく理解する教会はそんなにありません。また、御霊の賜物を用いる教会なんて尚更です。この両方を満たす教会を探しましたが、ありません。

 

  異言の賜物は用いるが、預言の賜物を否定する所がほとんどです。預言の恵みを知っているだけに、それを否定されるのは、かなり辛いことです。自分自身を否定し、自分を殺して教会生活を送るようなものです。私の中の御霊を消してしまうような思いです。

 

  また、異言は使徒時代で終わっている、と考える教会があることも知りました。彼らにとっては、異言は悪魔のわざです。聖霊のことを語らない教会もあります。御霊の賜物なんて、もっての外です。同じ聖書を信じているとは思えません。

 

  聖霊のバプテスマを信じる私を異端者扱いです。どうなっているの?キリストの教会は。主イエスは、神に油注がれ、聖霊のバプテスマを授けるキリストではないですか。

 

  バプテスマのヨハネも証言しています。キリストは、聖霊のバプテスマを授けるお方だ、と。また、イエスを神の子羊、と言っています。

 

  イエスは、神が天から遣わされた神の子羊であり、十字架と復活の栄光のあと、信じる者達に、キリストの御名によって聖霊を注いだ神の御子ではありませんか。

 

  イエスは弟子達に、聖霊を受けなさい、と命じておられるのです。御霊は、信じる者のうちに住み、神の国を味合わせて下さるお方です。

 

  また、二十年前のことですから、イスラエルと言っただけで、眉をひそめられました。教会では、ユダヤ人の契約も、ユダヤ人の歴史も、再臨のキリストがイスラエルのオリーブ山に立たれることも、正しく教えられていません。

 

  東京に来る数年前からブリッジス・フォー・ピースのティーチングレターで、イスラエルのことを学んでいました。東京ハイナイトに参加することにしました。

 

  それとは別に、イスラエルを祝福し、ユダヤ人の救いを祈る各種団体の合同でイスラエルのための集会が、初めて日本で持たれました。小さな集まりでしたが、大きな喜びがありました。その集会に参加したことがきっかけで、聖書研究会主催の学ぶ会での学びを始めました。

 

  二か月くらい礼拝に参加していたある教会に、外国人の講師が来てメッセージをされました。その中で語られた言葉がまるで、主が私にいっておられるかのようでした。

 

  教会探しはやめて、ひとりで礼拝しようかと考えていた時のことでした。実は以前からその事は示されていたような気もしますが、聖書的ではありませんから、考えないようにしていたのです。

 

  しかし、その言葉で、心は決まりました。霊の守りのために、クリスチャンの集会に参加するように心掛けました。独りよがりになって信仰がずれたら大変です。

 

  2002年2月から始めて、今に至っています。創世記1章から始めて、毎週1章ずつ開いています。賛美、祈り、献金、聖餐、みことばを持って礼拝します。多くの示しを受け取って来ました。

 

  神が霊を守り、教え、導き、成長させてくださっています。教会の交わりは大切ですから、他の人にはお勧めしません。ただ、教会を出て、彷徨っているクリスチャンがいることは知っています。

 

  超教派の教会の集会で、お会いするそういう方々は、本当に主に飢え渇いています。イエスを求め、神に熱心な人が多いです。私自身が同じ立場なので、彼らの霊の守りのためにも祈っています。

 

  教会の囲いの外にいる羊たちのための重荷です。礼拝では、イスラエルの祝福と、日本の教会の祝福のために、働き人のためにも毎週、祈っています。