ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

携挙にあずかる者は少ない

 

  かつて外国人の講師から、天に上げられる者は二分の一、地上に残される者も二分の一とのメッセージを聞いたときは、衝撃的でした。

 

  聖書学校で学んだ人々は、携挙という出来事について学びます。しかし、教会で積極的に教えられる内容ではありません。神学的にはっきりとした位置づけがされているものではなく、色々な説があって、どの説を信じるのか確定されていないからです。

 

  また、かつてホーリネスの教会では、再臨信仰を掲げて、仕事もやめ、白い衣を着て、皆でキリスト再臨を祈り待ち望んでいたが、キリストが来られることはなく、非難される事となりました。そして、その信仰は危険なものとして封印されました。

 

  そんなホーリネス教会から、イスラエルの回復がなければキリストの再臨は起こらない、という信仰が開かれたのです。中田重治は、イスラエルの救いと回復のために祈ることを教え、日本人の救いや伝道よりもイスラエルの回復を祈ることが重要だとの教えに、ホーリネスの内部に意見の相違による分裂が起こりました。

 

  この痛い経験によって、イスラエルのための祈りと教えは危険なものと認知され、教会の中から排除するようになったようです。

 

  聖霊派では、携挙信仰を持つ教会が多いと思いますが、教会の中で一つの見解に統一されているわけではありません。皆がそれぞれの考えを持ち、ぼんやりと捉えています。

 

  多くの教会では、教会まるごと携挙されると考えていたように思います。ですから、毎週礼拝に出席して、十分の一の献金を献げて、教会に属していれば、生きたまま天に上げられる携挙にあずかると考えて来ました。

 

  しかし、残される者がいるという衝撃的なメッセージを聞いたのです。地上に残されることは、誰も想定していませんでした。私は、真理の光に刺された思いがしました。目が覚めました。

 

  信者の人々は、ゆったりとして聞いています。教会に属しているから私達は大丈夫と安心しているようです。あるいは、携挙の意味、また、天に上げられるという事を普段考えていないので、内容を理解していないのかも知れません。

 

  私は、恐ろしい気がしました。この事が本当だったら、救いの概念が覆されてしまいます。心に深く入り込みました。

 

  真理は人を自由にさせるものです。恐れさせるものではありません。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。何故なら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」と聖書にあります。

 

  信者の心を怯えさせ恐れさせることが、本当の真理と言えるのでしょうか。ですから、多くの教会では、この考えに同意できないのです。はっきりとしたことがわかりません。確信出来ないことを大切な羊達に教えるわけにはいきません。

 

  しかし、私個人はそのメッセージを聞いてから、今自分が信じていることが本当に正しいことなのかと考え直すようになりました。何が真実なのかは、聖霊が御存じのはずです。御霊によらなければ、真理を捉えることは出来ません。

 

  東京の教会で、岡丸牧師の預言を聞きました。「携挙にあずかる者は少ない。わずかである。」その時、かつて聞いた十人の娘のメッセージの裏付けを得たような気持ちになりました。

 

  そうだ。今まで信じていたことが本当ではないのだ。誰も教えてくれなかったし、私自身も求めていなかったけれども、本当は、生きたまま携挙にあずかることは特別な事なのだ、と理解しました。

 

  再び、携挙にあずかる信仰はどのようなものなのか、を考え始めました。

 

  復活のキリストの昇天のあとで、父なる神は、キリストの御名によって聖霊を地にお遣わしになりました。真理の御霊です。自分の罪を言い表し悔い改め、そして、イエスを主と告白する者のうちに住まわれる御霊です。

 

  御霊は、イエスのことばを思い起こさせ、すべてを教え、守り、導かれる神です。キリスト者の肉の心を裂き、霊によって新しく生まれさせ、天上に住む者としての歩みを教え、聖め、神の御前に立つ者として整えてくださるキリストの御霊です。

 

  神から聖霊のバプテスマを授ける権威を与えられた唯一の救い主が、イエス・キリストです。キリストの御名によるバプテスマが、聖霊のバプテスマです。御霊を受けることは、神の国の交わりの中に入ることです。この世に居ながらこの世の者ではなく、天上の者としての歩みをするのです。

 

  御霊に教えられる者は、罪から離れます。御霊によって、新しく生まれた者は、霊の子です。復活のいのちで生きる者となり、永遠のいのちを得ます。内に住む御霊が永遠のいのちなのです。

 

  神の子羊イエスの血で贖われ、罪赦された人は、御霊を飲んで、キリストの足跡を歩む者となります。自分のうちにある苦みや憎しみや赦せない思いや、痛みや傷はその歩みの中で取り扱われ、悔い改め手放し聖められていきます。神が喜ばれることが喜びとなるように、変えられていきます。

 

  キリストが父なる神に従われたように、神のことばを求め、神に従順な者、神に従う霊の子として、成長するのです。その人の中には、神への感謝と賛美と喜びと平安と、祈りがあります。

 

  御霊によって作り変えられた新しい創造であるキリストの民を、キリストは天から迎えに来られるのです。

 

  かつて、主を待ち望む極端な行動に出たホーリネス教会の信条の中に、通じるものがありました。新生、聖化、神癒、再臨だそうです。それは、キリストによって新しく生まれ変わり、聖めを受け、シミも傷もしわも無いキリストの完全なる姿となって、キリストの再臨を待ち望む信仰のようです。

 

  携挙は、キリストを信じる者が生きたまま天に引き上げられることだと思っていましたが、キリスト昇天の後で、地上に使わされていた御霊が引き上げられることなのですね。それは、異邦人の数が満ちるときに起こるようです。

 

  イエスが十字架、復活と、神の子羊の任務を完了して、父のもとに帰られたように、キリスト者のひとりひとりに宿っていた御霊も神の子を創造する任務を完了し、キリストのもとに引き上げられるのです。その時、聖霊の宮である聖霊の器もともに引き上げられるのです。

 

  聖霊のバプテスマを受けたと言っている人々が、御霊によって新しく生まれ、聖められ、キリストの弟子に変えられていないことが、聖霊を否定する教会のつまずきとなっているのかも知れません。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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