ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めましょう

 

  人間は、創造主を知らずして、命は自分のものだと思い、自分の命で自分が生きていると考えています。いのちの所有者は自分であって、自分の所有物の命をどのように使おうが、自分の勝手だと思っているから、死んだ後のことなど考えてはいません。

 

  いのちに対して自由に振舞うことが、カッコいい生き方だと支持された時代もありました。

 

  「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」と聖書にも書いてあるではありませんか。

 

  せっかく生まれて来たのだから、楽しまなくては。戒めなんて真っ平ごめん。宗教臭いことは年寄りがすることさ。飲んで食べて楽しもうぜ。これが若さと言うもの。辛気臭いことは考えないで愉快に暮らそうぜ。

 

  多くの人々は、その聖書の言葉のあとに続く聖句を見落としています。

 

  「しかし、これらすべての事において、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ。」

 

  また、若者にこのようなメッセージも書かれています。

  「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」

 

  信じられなくても、人は神に造られた被造物です。空気なんて目に見えないから信じないと言う人はいません。電気なんて目に見えないから信じないと言う人もいません。静電気を感じますし、電気によって快適な暮らしをしています。

 

  生まれつきのままの人間には、わかりません。五感を使って外界に触れ、自分の内側に神経を向けると、普段気づくことのない感覚が芽生えます。

 

  神に造られた人は、神に似せて造られており、霊的生き物でした。霊の感覚で生きていました。霊なる神と会話も出来、神とも自然界すべてのものとも繋がり調和があったのです。

 

  霊的な姿が人の本来の在り方だったのです。創造主である神とともにおり、すべての被造物を神のことばによって支配する存在だったのです。

 

  生まれて来た人は、誰でも生まれながらの罪人です。神を神とせず、主権を主権者である神から奪い、自分を命の所有者であり、自分の人生は自分のものだと思って生きています。神から離れているので、聖さはありません。妬みと憎しみと汚れと偽りによって、神の似姿に造られた自分を汚しながら生きています。

 

  神から離れた存在であることに気づき、神を神としないで生きて来たことを悔い改めなければなりません。このことが、すべての汚れや罪の原罪なのですから。人の本来の姿は罪を犯すものではありませんでした。神は、人を本来の良いものに回復したいと願っておられるのです。

 

  イエスが十字架で死に、墓から甦って復活のからだで弟子達に現れたキリストは、100%霊的存在でした。肉は十字架で死にました。戸が閉まっていても中に入って来ることができる霊のからだです。霊ですから、物質に妨げられることはありません。一瞬にして、場所を移動することもできます。

 

  霊なのに、肉眼で見ることが出来ます。肉体を持つ人と変わらず、食べ物を食べることができ、口で話し、会話をします。触ることも出来ます。

 

  復活のからだの人は、肉に縛られることはありません。食べ物を食べなくても永遠に生きます。睡眠も必要ありません。何の拘束もないのです。肉体が無いから、からだに痛みはありません。病気もありません。

 

  キリストを信じる者が、信仰告白として水のバプテスマを受ける儀式は単なる儀式ではなくて、十字架上のイエスと結び合わされる行為です。水の中にザブンと浸かり、水から上がるバプテスマは、イエスの十字架でともに肉に死んで、葬られ、墓から復活したことを象徴します。

 

  このことは、子羊イエスの血による聖めを受けた者の生き様を表していると思います。イエスは鞭打たれ、肉を裂かれ、裸でさらされ、血を流して肉の思いを処罰されました。そして、死んで、死から甦り復活されたのです。

 

  人々の罪に身代わって流された子羊の血は、贖いの血です。イエスの血を受け、イエスを主と告白する人は、水のバプテスマを受けることで、イエスが通られた十字架の死と復活をイエスの中に居て体験した者とされるのです。

 

  水から上がった人は、肉に死んだ者です。この世に生きながら、天上で生きる霊の子としての歩みが始まるのです。しかし、まだ肉体の中にいますから、罪の誘惑に悩まされます。その誘惑に勝利させ、霊の子の歩みを導く養育係が聖霊です。

 

  イエスは、聖霊のバプテスマを授けることを約束されました。水のバプテスマは、父と子と聖霊の御名によって授けられます。聖霊は、キリストの御名によって授けられます。

 

  水の洗いで、肉に死に霊にて復活した人は、御霊を受けて霊の子として新しく生まれ、神の子として造り変えられるのです。神の子とされる特権を与えられた人は、特権に留まらず、神の子としての歩みを始めなければ、神の国に入ることは出来ません。

 

  イエスが「招待される者は多いが、選ばれるのは少ないのです」といっておられるのは、そういうことです。

 

  御霊の力がなければ、誰も霊の事はわきまえられないのです。御霊に導かれなければ、いのちの道を歩むことができません。自分の力で罪を克服して行かなければなりません。罪であるとわかったことで、より一層悩みが増します。キリストの血で罪が赦されているはずなのに、罪を意識します。罪の思いに押しつぶされそうです。

 

  イエスはいわれました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。聖霊を受けなさい。」

 

  イエスに助けを求める時に、祈ってみてください。「主よ。あなたは真理の御霊を遣わすと約束されました。聖霊を受けなさい、ともいわれました。あなたの約束ですから、御霊を受け取らせてください。聖霊で満たしてください。私に歩む道を教えてください。聖霊様、私のうちにお住みください。御霊が教え、導いてください。」