ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の子の歩み

 

  「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と聖書にあります。

 

  イエスを「わが神わが主」と呼ぶ人々、それは、イエスが世の罪から救い、永遠の天の御国に入らせてくださる救世主(キリスト)であると信じた人々です。

 

  神から遣わされた神の子羊であり、生贄の子羊イエスの血によって罪が贖われて罪の呪い(死と滅び)から救われたことを信じる人々は、天で永遠に生きる神の子どもとされる特別な権利を得た、と言うのです。

 

  この権利を行使する人々は、神の子どもとされるための歩みを始めます。神の子どもは、光の子ども、昼の子どもです。夜や暗闇の者ではありません。

 

  神は、昼の者が神の御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったのです。

 

  昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜として被って、目を覚まして、慎み深くしていることが大切なことのようです。

 

  この世は闇で、世の人々は、闇の子であり、夜の子です。闇の世に生きる者は、闇の王(悪魔)によって、火の池へと導かれます。永遠の滅びです。

 

  彼らの霊は眠っており、死んでいます。神との契約を持たない他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人です。皆、不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、他の人達と同じように、生まれながら神の御怒りを受けるべき子です。

 

  しかし、憐れみ豊かな神は、人を愛し、神の契約の外にいた異邦人をも大きな愛ゆえに、神のひとり子の命と引き換えに、恵みによって救ってくださったのです。

 

  罪過の中に死んでいた私達をキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともに甦らせ、ともに天の所に座らせてくださいます。

 

  神の恵みにより、信仰によって救われるのです。行いによるのではありません。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。誰も誇ることはできないのです。

 

  私達は神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私達が良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださいました。

 

  神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝福してくださいました。キリストのうちに選び、御前で聖く、傷の無い者にしようとされるのです。

 

  神は、ただ御心のままに、私達をイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

 

  パウロは言います。

  「あなたがたは、今している通り、互いに励まし合い、互いに徳を高めなさい。

  兄弟達よ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。

  兄弟達。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。

 

  いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

  御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはなりません。すべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。」

 

  神の権威は本当にあります。母教会にいた頃、光の世界の歩み方を知らない私は、牧師の権威の中にいるように、務めました。人の目で見ると、献身を反対する牧師に従っていないように見えますが、神の権威を仰ぎつつ、目の前の牧師の権威を認めていました。

 

  神のことばは離しません。そして、祈りました。ある時、牧師は聖書学校に推薦状を書くということで、聖書学校の門をくぐらせて下さいました。卒業時、牧師に従うということを心に決めたら、牧師から宣教師のもとで働くように任命されました。一年という約束でした。

 

  宣教師のところでの働きを終える頃、牧師を通して、ある教会の伝道師としての働きに任命されたのです。神は牧師に権威をおいておられることを知ったのです。私の献身を認めない牧師が、私の前に献身の道を開いて行くのです。牧師を動かす神の権威も知りました。

 

  神が置かれた権威者を用いて、その権威に守られながら、安全に歩めたのです。自分で働きかけても、宣教師のもとで働けるものではありません。牧師の覆いがあるから開かれた道です。本当に、神は、反対者も用いることが出来るお方だと思いました。

 

  牧師が任命したから、私の献身を認めたかと言うと、そういうわけではありません。牧師は、宣教師の団体や教会の要請に応じていただけなのです。神様って凄いって思いました。牧師は、ご自分の思いではなく、神の導きに従っただけです。

 

  神は権威を授けた牧師を通して、何の支障もなく、スムーズに安全に守りを与えて導かれました。

 

  神は、ご自分のひとり子キリストによって、キリストを信じる人々をご自分の子にしようと定めておられるのです。キリストを信じる人を、キリストにあって神の御国を受け継ぐ者とされるのです。

 

  キリストを信じて父なる神のもとに帰る者は、神の子どもなのです。地上にある間は、神に従う義の奴隷です。悪魔の奴隷、悪と罪の奴隷から解放された義の奴隷、神の奴隷なのです。しかし、神の御前に立つときは、奴隷ではなく、神の子どもなのです。

 

  また、地上で神の御子イエスが神に忠実なしもべとして歩まれたように、キリストのしもべとして歩みます。イエスが神を父と呼び、愛し従われたように、御霊によって「アバ父」と呼び、イエスを愛し神に従うのです。

 

  キリストはキリスト教の創始者ではありません。聖書は宗教の書物ではありません。神と信者、キリストとしもべの関係ではなく、神は、神の子、キリストの兄弟、神の家族を新しく創造されるのです。聖書は、ユダヤ人のものでも、クリスチャンのものでもなく、全人類の救いのために備えられた、いのちの書物なのです。

 

  ですから、キリストを信じる民は、宗教的に捉えてはいけません。喜びと賛美を持って祈り、すべてのことを感謝して、神に栄光をとっていただくのです。そして、神の交わりの中に入り、この世が与えることのできない、神の平安を味わうのです。