ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の善を生きる

 

  善悪の木の実を食べた者の善は、道徳的に見た善です。道徳とは、人の生きる道において、徳を高めるものです。どんなにすぐれた善であっても、この世の善です。永遠に覚えられるものではありません。

 

  永遠の世界は、光です。全き光です。闇はありません。神が王である世界です。この世の王は悪魔です。悪魔が支配する世は闇です。この世の善悪の善は、闇で輝く光であって、真(まこと)の光の中では、くすんだ偽りの光なのです。

 

  人々は、くすんだ光を頼みにして希望を持ちます。偽りの光はもっともらしいことを並べ立てて、偽りの平安を与えて安心させ、火の池へと導きます。この世の光と思われるものは、永遠の光の中では、悪であり、闇なのです。永遠の光の中に入ることは出来ません。

 

  この世の善に励んだ者も、この世で悪に満ちた者も、行く先は同じです。この世の行く先は、永遠の光ではなく、永遠の火の池です。永遠の滅びなのです。

 

  善行を積んでも、永遠の光の主権者が認めないものは、善とはされないのです。何故ならば、永遠の光の善は、神御自身なのですから。神御自身から出たものでなければ、永遠の光に相容れないものです。

 

  世は、永遠の光の影でした。宇宙の中に置かれた、真(まこと)の光の影でした。神の栄光を映し出す、ただ一つの星、地球には、天の御国の写しがあります。

 

  木々や植物が生え、豊かな水と多くの命があります。太陽は、それらを生かし、育みます。そこには、地球を管理する人がいます。これらは、ひとりの神によって創造された被造物です。

 

  神は、地球を神の国のひな型として置かれました。太陽のような温かい神の愛に守られ、多くの命が与えられたいのちを楽しみます。人はすべてを支配する者としての任務を神から仰せつかっています。

 

  しかし、この世には悪魔がいます。神の国のひな型であって、神の国ではないからです。この世は光の写しであって、真(まこと)の国の影なのです。影はやがて消えてしまうものです。

 

  真(まこと)の主権者が世に現れると、影は消えます。神のひとり子イエス・キリストが、イスラエルの王として、地上に戻って来られた時に、そのことが起こります。

 

  この世において、神の善で生きることを身をもって教えられた、唯一のお方です。世に現れ、世に広く知れ渡ったイエス・キリストその人です。

 

  イエスは、律法に従って生きた方ではありません。父なる神に従って生きた人です。父なる神の中に、神の律法があり、聖があり、愛があり、義があるのです。神に従うイエスは、律法を完全に守られました。

 

  ユダヤ人は、神がモーセに与えた律法を守りますが、神御自身のことはわかりません。神御自身の中に、モーセの律法は含まれていますが、それがすべてではありません。

 

  神がモーセに与えた律法は、善悪を知る木の実の呪いに対して、アダムの子らを神の善に導き入れるための道しるべでした。道しるべであって、神の善そのものではありません。もしも、神の善であったなら、律法だけで救いは全うされていたはずです。

 

  道しるべであるモーセの律法は、神を意識して生きる民を造っていきました。神を神として崇める民族イスラエルです。神は、この民族に神のひとり子を、神の子羊イエスとして与えられたのです。

 

  神の子羊は、アダムの罪の生贄の子羊であり、この子羊の血は、アダムの罪を贖う血です。子羊イエスは、神の油が注がれたキリスト(救世主)でした。

 

  イエスは神のことばそのものでした。父を仰ぎ、父に従い、父のことばの中におられました。この世であっても、天の御国と同じ生き方をされたのです。

 

  父のことばの中にいるイエスは、父とひとつでした。モーセの律法を意識しなくても、モーセの律法を守り通したのです。イエスにとって、律法は守るものではなくて生き様だったのです。

 

  イエスは父に従い、神の御子であるのに塵から造られた人と同じように、肉体を持つ人の子となられました。

 

  イエスは父に従い、イエスご自身は罪を犯していないけれども、肉の思いを手放し、思いを洗い清め、神に目を向け霊によって生きる神への誓い、悔い改めの水のバプテスマを受けられました。それで、父は、人の子イエスに聖霊を送られ、御霊がイエスに留まられました。

 

  イエスは父に従い、神のことばを神の導かれるままに宣べ伝え、病んでいる者には癒しを、嘆く者には希望を、悲しむ者には慰めを、捕らわれ人には解放を、罪にうめく者に赦しを、闇の力を𠮟りつけ光を与えました。

 

  イエスは父に従い、イエスを迫害し十字架につけた者達を赦し、父に執り成されました。イエスは神のことばの中を歩み、神の主権に従う神の御国をこの地上に全うされたのです。イエスは、善悪の木の実が与える善悪を知る知識ではなく、神の善で生きられました。真(まこと)の善を、世の人々に明らかにされたのです。

 

  イエスは、人々に、影のように消えて行くこの世の善ではなく、永遠に堅く立つ神の善を与えられたのです。神の善で生きるようにその生き方を示し、また、聖霊を与えられました。聖霊は助け主であり、教え導く真理の御霊です。聖霊は神であり、永遠の御国であり、永遠のいのちなのです。

 

  善悪の木の実を食べて滅んでいく人々の舌を聖め、新しく神を賛美する唇を創造されるのです。聖霊は、イエスをキリスト(救世主)と信じる人々に、唇の実を創造してくださるのです。

 

  永遠の住まいに住む、聖なる主は仰せられます。

  「わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

  わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造った魂が衰え果てるから。

  彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなお背いて、自分の思う道を行った。

  わたしは彼の道を見たが、彼を癒そう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者達とに、慰めを報いよう。

  わたしは唇の実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。

  わたしは彼を癒そう。」