ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めによる回復 放蕩息子の場合

 

  イエスは話された。

  「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日も経たぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たした後で、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。

 

  それで、その国のある人のもとで豚の世話をする者となった。彼は飢えていた。餌を食べる豚を羨ましく思い、豚の餌で腹を満たしたいと思うほどであったが、誰ひとり彼に与える者はいなかった。

 

  彼は、我に返った。(父の家にはパンのあり余っている雇い人が大勢いる。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父の所へ行こう。私は罪を犯した。父に子どもと呼ばれる資格はない。父に雇ってもらおう。)そして、父のもとに向かった。

 

  財産を持って家を出た時は、何も恐れることなく、根拠のない希望に満ちていました。自由を手にした喜びに溢れていました。しかし、手にした財産を使い果たし、飢饉という想定していなかった環境の変化で、すっかり彼の心は変わりました。彼を安らがせる落ち着いた喜びは、財産でも、好きに生きる自由でもなかった。財産が与える喜びは束の間。自由の楽しみが満たしてはくれない。

 

  父の家に、本当の安らぎと感謝と喜びがあったことに気づいたのです。父の家には、守りがあり、安息がありました。労働はあるけれど、父の家の労働は、十分に養いを与え飢えることはありません。父の家の変わらぬ日々の中に、自分の魂の休む場所があったのです。

 

  日々の労働に飽き、変わらぬ日常に落胆して、労働からの解放と勝手気ままな自由を夢見た、かつての弟息子ではありません。世の荒波にさらされて、父の家の恵みを知った彼は、自分の間違いを認め、神と父親に悔い改める新しい心を得たのです。もはや自分を主張する者ではありません。神と父にへりくだる者となったのです。

 

  彼の心は生まれ変わりました。へりくだる心と仕える心と神が与えられた父の家を喜び、感謝する者に変えられたのです。

 

  彼はやせ衰え、みすぼらしい身なりで惨めな者となりました。見たところでは、極限の落ちぶれ方です。しかし、彼の心には父への信頼と希望と感謝の種がありました。

 

  まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、可哀そうに思い、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけした。

 

  弟息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたに罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

 

  ところが父親は、しもべ達に言った。「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、靴を履かせなさい。そして肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

 

  父は待っていたのです。息子が出て行ってからずっと帰って来るのを待っていたのです。風の便りで息子が放蕩しているのを知っていたのでしょう。心傷めつつも息子を案じていました。財産は息子に手渡した時から、それは息子のものであり、父親のものではありません。散財を怒っていたのではありません。息子のことを案じていたのです。大飢饉のことも噂されていました。息子は生きているだろうか、と心配でたまりません。しかし、息子は家での生活が嫌で、出て行ったのです。帰る気はないのかも知れません。

 

  父には、息子を迎え入れる用意がありました。いつ帰って来ても迎え入れたでしょう。父はいつも遠くを見て息子のことを思っていました。ある日、いつものように遠くを見ると、ひとりのみすぼらしい人が弱々しい姿でこちらに向かって来ます。

 

  父親にはすぐにわかりました。息子です。息子が帰って来たのです。あんな姿になって・・・父は息子が憐れでなりません。長い間食べる物もなかったのでしょう。父は走り寄って、息子を抱きました。

 

  親の心子知らずな、あの息子が、心へりくだった新しい人となって、父の前にいるのです。父の心は、喜びに満ちました。息子が帰って来た喜びに加え、息子の心が生まれ変わったことを知り、最上の喜びを味わったのです。

 

  父は息子に指輪をはめさせ、息子であることを証明しました。靴を履かせ、雇い人ではないことを証明しました。

 

  祝宴の音楽や踊りの音は、畑にいた兄息子にも届きました。弟が帰って来た祝宴のことを知ると、兄は怒って家に入ろうとしません。父がなだめると、「自分は父の戒めを破らず忠実に仕えているのに、友達と楽しむために子山羊一匹でも料理して楽しんだことはありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶした息子のためには子牛を屠るのですか」と反発しました。

 

  父は言った。「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

 

  教会の中にいる人々は、教会に守られ、賛美と喜び、感謝と祈り、神を礼拝する群れの中にいます。しかし、気が付くと、いつの間にか当たり前となっていて、新鮮な喜びを感じなくなっているのかも知れません。

 

  教会から出ていった人は、信仰が無くなった人、救いの恵みから落ちた人と思われがちですが、彼らの心は真理に飢え渇き、教会に属していた時よりも、純粋に神を求めています。

 

  兄は弟が帰って来たことを喜べませんが、父は待ち続けており、帰って来た時には大きな喜びを味わいます。弟の心に植え付けられた信仰と希望と愛の種は花を咲かせます。父は兄も弟も等しく愛しているのです。

 

  兄は父の戒めを守り父に忠実であることで神の愛を体験します。しかし、自分の放蕩を悔い改める弟は父の赦しを体験して、父への愛と感謝と喜びを体験するのです。

 

  神の愛は、赦しとともにあるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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