ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の子とされる特権と神の子

 

  この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名(イエス)を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。

  この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。       ヨハネの福音書1:12,13

 

  十字架で流されたイエスの血が、罪を贖う血であることを信じ、イエスが神が天から遣わされた神の子羊であることを受け入れたた人々、すなわち、イエスが神の御子であり、神が天から地に遣わされたキリスト(神に油注がれた救世主)であることを信じる人々には、神の子(神の御国で永遠に生きる、御霊の子)とされる特権をお与えになった。

 

  イエス・キリストを信じて神の子とされる特権を与えられた、この人々は、アブラハム、イサク、ヤコブの血を引く神と契約を結ぶ、契約の民ユダヤ人であるからではなく、神の子となって永遠に生きたいという人間から出た欲求でもなく、また、人が正しく生きるように熱心に探求し真面目に努力した結果でもなく、ただ、神が招き、神の招きに応答し、神の御霊の御思いを受け入れた人々なのです。

 

  人間には、御霊のことは受け入れられません。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。それを悟ることが出来ないのです。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

 

  愛のない者に、神はわかりません。

 

  ヨハネの手紙には、このようにあります。

  「愛は神から出ているのです。愛のある者は皆、神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。何故なら、神は愛だからです。愛のある者は、イエスの十字架の愛を知ります。

 

  神は愛です。愛のうちに居る者は神のうちにいるのです。イエスを信じる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が人においても完全なものとなりました。それは信じる人々が、裁きの日にも大胆さを持つことが出来るためです。

 

  愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。何故なら、恐れには刑罰が伴っているからです。信じる人々は、神を愛します。神がまず私達を愛してくださったからです。」

 

  福音は、人間から出たものではなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から甦らせた父なる神によるものです。福音は、人間によるものではなく、イエス・キリストの啓示によって受けるのです。

 

  神の子とされる特権を受けた人々は、御霊を受けることで霊の子として新しく生まれます。それを、新生と呼びます。肉によって生きて来た人が、御霊(神の霊)を受けて、霊の子としての歩めを始めるのです。

 

  肉の思いから、御霊の思いへとシフトして行くのです。生まれつきの人間がキリストの赦しと復活のいのちを受け、御霊を受けて、御霊によって霊の子として生れ、神の子としての歩みが始まるのです。

 

  この地上で生きながら、天上の思いによって生きるのです。神を目の前に置き、キリストのことばを食べ、御霊の生けるいのちの水を飲み、意識は神とともにあります。

 

  この地上の誰もが教えることが出来ない、目が見た事もないもの、耳が聞いた事のないもの、そして、人の心に浮かんだ事のないものを御霊によって啓示されるのです。

 

  御霊を持つ人々は、真の羊飼い(キリスト)の声を聞き分けます。神を知っている者は、神から出た者の言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、神から出た者の言うことに耳を貸しません。

 

  イエスがキリスト(世の罪を取り除く神の子羊、神の御子キリスト救い主)であると信じる者は誰でも、神によって生まれたのです。生んでくださった方(神)を愛する者は誰でも、その方によって生まれた者をも愛します。

 

  神の子とされる特権を有する人々は、互いにキリストにあって兄弟姉妹、神の家族です。誰も神を見た者はありません。しかし、キリストにある兄弟姉妹が互いに愛し合うなら、神は彼らの中におられ、神の愛が彼らのうちに全うされるのです。

 

  肉の子から霊の子として生まれるには、肉を破り、神にはない思いを捨てて行くことになります。多くの痛みと悲しみと苦しみも味わうことでしょう。肉の家族との分裂を味わうかも知れません。霊の家族の中での孤独を味わうかも知れません。しかし、これらは神のわざなのです。神の手が働いているのです。

 

  神は神の子に相応しい者として整え、聖められるのです。

 

  パウロは言っています。

  「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。神は語られます。

  『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、鞭を加えられるからである。』

 

  訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。霊の父は、私達の益のため、私達をご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 

  すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた足とを、まっすぐにし、足のためには、まっすぐな道を造りなさい。

 

  あなたがたは、罪人達の反抗を忍ばれたイエスのことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 

  すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、誰も主を見ることが出来ません。」

 

  神の子とされる特権を重んじ、神の御手にへりくだる人々は、神の子とされ、神の御前に立ち、神を見るのです。

 

  あらゆる恵みにみちた神、私達をキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神御自身が、私達をしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 

  天上で永遠に生きる七つの教会は、教会という建物のことではなく、御霊によって生まれた霊の子であり、御霊によって創造され、御霊の信仰によって勝利した神の子の集まりなのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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