サマリヤは、北イスラエル王オムリが築いた都だった。アッシリア王の攻撃で陥落し、住民は捕囚の民となった。サマリアにはアッシリアからの移民が移り住み、残留イスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれた。
サマリヤ人は、ユダヤ教と同じ風習(割礼、安息日、モーセ五書)を持っていたが、ゲルジム山に神殿を築き、彼らの聖地はエルサレムではなく、ゲルジム山であった。
ユダヤ人(南ユダ王国)からは、サマリヤ人は北イスラエル王国とは直接関係のないアッシリア系移民の子孫と見られていた。ユダヤ人は、サマリヤ人を嫌っていた。
完全な異民族ではないが、自分達をユダヤ人と同族とみなしたり、また自分達を他の移住者でユダヤ人とは関係ないとしたり、自分達の都合で立場を行き来するサマリヤ人を嫌った。
ユダヤを去ってガリラヤへ行くのに、サマリヤを通って行かねばならなかった。誰も水を汲みに来ることの無い時間帯であった。イエスは旅の疲れで、サマリヤの井戸のかたわらに腰をおろしていた。弟子達は食物を買いに、町に出掛けていた。
ひとりのサマリヤの女が水を汲みに来た。人々から忌み嫌われ、蔑まれる身持ちの悪いその女は、人目を避けて水を汲みに来たのだった。
イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしないのに、声をかけるイエスを怪訝そうに見ながら、サマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰かであるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
サマリヤの女は、井戸水の話をしているのだと思った。
イエスは言った。「この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
イエスは、十字架の死と復活の後に与える御霊のことを言われた。
女は言った。「先生。私がもうここまで水を汲みに来なくてもよいように、渇くことがないと言われる、その水を私に下さい。」
イエスは女に言われた。「言って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女は答えて言った。「私には夫はありません。」
イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。」女は、イエスが預言者だと思った。そこで、ユダヤ人が、礼拝すべき場所はエルサレムだと主張していることが真実のことなのかを尋ねた。
イエスは言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、ゲルジム山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、ユダヤ人は知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者達が霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
霊なる方は、霊で礼拝されるものであることをイエスは言われました。イスラエルでは、神に油注がれた大祭司が神に仕え、神のことばを預かった預言者が神のことばを告げて来ました。神の霊が彼らを立て、彼らを働かせていました。彼らの上に置かれた神の霊が、霊なる神に仕えていたのです。
しかし、神の子羊イエスが世に現れ、時代は変わりました。「わたし(キリスト)は、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はじためにも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエルの預言が成就する時が来ました。神を信じるすべての者に聖霊が注がれる時代が来たのです。
神が召した者の上に置かれた聖霊の働きの時代は終わり、キリストを信じるすべての人々にキリストの御名による聖霊のバプテスマが授けられて、御霊による新しい契約が開かれたのです。
キリストが十字架上で息を引き取られた時に、天が開かれました。神殿の幕が人手によらず、上から下まで真っ二つに裂け、天上にある真の聖所が現れたのです。
神に選ばれた大祭司ひとりだけが入ることの許された、人が造った至聖所での礼拝の時代は終わりました。
イエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストです。キリストの父は、キリストの復活と昇天後に、キリストの約束通りに、キリストの弟子達(イエスを信じ、イエスの足跡を辿る者達)に聖霊を注がれました。
御霊を受けた彼らは、御霊によって、開かれた天の聖所で、霊とまことの礼拝を献げる礼拝者となりました。霊的礼拝です。
エルサレムでもなく、イスラエルでもなく、世界のあらゆる国々あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる国語で、生けるまことの神(イスラエルの神)を、キリストの御名によって礼拝を献げるのです。
御霊を受けた彼らは、御霊に教えられ、御霊に導かれる者達です。神が与えた御霊によって、霊的な礼拝をするのです。それは、天でされている天上の礼拝です。
人の努力や熱心によらず、御霊による、霊的礼拝です。権勢によらず、能力によらず、神の霊(御霊)によって成される神のわざを覚えて、神の御救いと栄光、御力を褒めたたえ、神の尊厳と誉れを崇めるのです。
天上の礼拝は、感謝と賛美と祈りです。神の御前にひれ伏し、すべての栄光を神に献げます。このような礼拝は、御霊の成せるわざです。人から出た行為ではありません。
神は御霊が与える唇の果実を喜ばれます。神に受け入れられる礼拝は、御霊による礼拝なのです。神は、このような礼拝者を求めておられます。
イエスは言われました。「真の礼拝者達が霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」父を礼拝するのです。イエスは、イエスを礼拝するように言われたのではありません。御霊は、神の子羊イエスを地に遣わされた、父なる神の礼拝者を創造されるのです。
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