ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊のキリストのからだに属する神の宮

 

  肉のからだがあるように、霊のからだもあります。霊のからだは、目では見えません。肉のからだの中に隠されています。

 

  肉体を持つ人々の集まる地上のキリスト教会があります。目に見えるキリスト教会です。その中には、目に見えない霊的な教会があります。霊のからだの人々が集まる教会です。肉の教会もあれば、霊の教会もあるのです。

 

  肉のキリストのからだ(教会)もあれば、霊のキリストのからだ(霊の教会)もあるのです。天上は、霊の世界です。霊の世界に、肉が入ることはありません。朽ちるものは存在しません。天上に上がるのは、霊のキリストのからだなのです。

 

  霊のキリストのからだは、御霊によって創造された新しいからだです。御霊によって生まれ、御霊によって導かれて狭い門に入り、いのちの道を歩む聖霊の宮です。

 

  いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。御霊によらなければ見つけることが出来ないからです。

 

  イエス・キリストが神の子救い主だと信じて信仰に入る者は多くいます。しかし、狭き門を見出す者はまれなようです。霊のからだに属する者でないと、見ることが出来ないのです。

 

  「父は霊ですから、霊なる神を霊とまことで礼拝しなさい」とイエスは言われました。肉のからだに属する者は、霊とまことの礼拝をすることが出来ません。肉による礼拝しかできないのです。目に見えない神をどのように知り、どのように礼拝するのかがわからないからです。

 

  霊のことは御霊によらなければ、知ることが出来ません。キリストは、霊のからだを生み出すために、御霊を遣わして下さるように、父にお願いされました。それで、父なる神は、イエスを主と告白する者のうちに、御霊が住まわれるようにと、キリストの御名によって求める者に、御霊を与えられたのです。

 

  多くの人々が、イエス・キリストの救いを信じて、キリストの肉のからだ(教会)に入ります。肉のからだの中には、麦と毒麦がいます。表面的にはわかりません。皆が羊のように群れとなって育てられます。彼らは、世の矛盾や問題を抱えており、真実なものを求めています。聖書の中に真理があり、イエスのうちに真実な愛があると思って、集うのです。

 

  地方教会はキリストの肉のからだの中の一部であって、キリストのからだの全体ではありません。キリストの肉のからだの中は、慰めがあり、安らぎがありますが、完全ではありません。

 

  主を愛する人もいますが、そうでない人もいます。主を求める人もいますが、人を求める人もいます。人の交わりで満足する人もいれば、イエスとの交わりを求める人もいます。神の知識を求める人もいれば、神を知ることを求める人もいます。救いを受けた自分に満足する人もいれば、神御自身を求める人もいます。自分を愛する者もいれば、キリスト・イエスを愛する者もいます。

 

  神を求める人は、霊的な飢え渇きを覚えます。彼らには、御霊が必要です。キリストの御名によって、御霊が与えられることを神に求めます。

 

  御霊を受けて満足する人もいれば、御霊に助けを求める人もいます。御霊は求める者のうちに住まわれます。真理に飢え渇く人は、御霊に真理を求めます。御霊はキリストのことばを思い起こさせ、教え、導きます。

 

  真理を愛する人は、御霊の与えることばを足のともしびとして、歩みます。その道は、霊の道です。どこに向かっているのかはわからないけれど、足のともしびを頼りに歩んで行くと、多くの苦難が待ち受けています。それで、引き返してしまう人もいます。

 

  霊の道は、世の人の知る道ではありません。人の目には、非常識に見える歩みである場合もあるのです。肉には、霊のことが理解できないのです。人には理解できません。御霊が導かれるからです。

 

  キリストの霊のからだは、イエスを愛するからだです。御霊が教えることばを足のともしびとして、信仰の歩みをするからだです。御霊が住まう聖霊の宮です。神の宮です。

 

  彼らの手には、イエスのみことばがあります。これをいのちとし、宝とします。彼らのうちには、御霊の与える平安と喜びがあります。彼らは、御霊によって、いのちの道を歩んでいるのです。

 

  彼らは、イエスを愛する人です。自分の命よりもイエスを愛した人です。自分の命の楽しみよりも、イエスとともにいることを選んだ人です。イエスを愛する者を、父も愛されます。

 

  彼らは、世にあって肉のキリストのからだに属しながら、御霊を受け、御霊によって生まれ、御霊に霊の子として創造されて、霊のキリストのからだに入る人々です。復活のキリストのからだの一部なのです。

 

  霊のキリストのからだは、霊の世界でかたち造られています。人にはわかりません。しかし、確かにキリストの霊のからだは建て上げられているのです。

 

  霊とまことによって父なる神を礼拝する人が求められています。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とイエスは言われました。この霊的な礼拝は、御霊によって学ぶものです。聖霊の宮である人に開かれた礼拝なのです。

 

  神の宮では、霊なる神が礼拝されるのです。イエスを愛し、神が与えられたプログラムに忠実な者達の礼拝です。彼らは、御霊の実を結ぶ者です。

 

  神が与えられたプログラムとは、御霊を受け、御霊に教えられ、感謝と喜びと祈りとともに、御霊に導かれる歩みです。それは、いのちの道の歩みなのです。

 

  神は、神に忠実な者、いのちの道を歩む人を集め、永遠に生きる復活のキリストのからだとされるのです。

 

  「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」地上の教会に招かれる者は多くいます。キリスト教徒は、すべての宗教の中でも多くの割合を示すほどに、多くいます。多くの人が招かれているのです。

 

  しかし、天の御国に入る、霊のキリストのからだとして選ばれる人は少ないのです。神の宮は、自分で、神を選び、神を求め、御霊によって霊的礼拝に入った者です。神は、この神の宮を選ばれるのです。

 

  ペテロは言います。

  「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪が聖められたことを忘れてしまったのです。

 

  ですから、兄弟達よ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまづくことは決してありません。」

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍、楽天kobo