ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊の子の成長

 

  真理を知りたいと思う人が、キリスト教会に辿り着きます。

  聖書の学びを始め、キリストの福音を聞きます。

  イエスが神の子であり救い主であると信じることを選択します。

  神と離れて神を神とせずに、自分勝手に生きて来た人生の歩みを悔い改めます。

 

  神の御元に帰る人生を選択します。

  イエスを私の神、私の主と告白して、水のバプテスマを受け、神の子とされる特権を得ます。

 

  キリスト教会の中で、神を礼拝し賛美し祈り、神に献げ物をすることを体験し、キリストにある教会の兄弟姉妹との交流を通して神の子としての新しい生き方を学び、神の子の候補生の仲間入りをします。

 

  聖霊のバプテスマという新しい領域を知ります。罪を悔い改めて、イエスを主として生きて行きます、という誓いの水のバプテスマとは異なり、もっと神を体験したい、もっと神御自身を知りたいと神に心を開き、主とともに生きることを望む者に授けられる、霊的なバプテスマです。

 

  聖霊が天から下って来て、御霊を授けられるのです。十字架のキリストの贖いの血を持つ人のうちに、御霊が住まわれます。

 

  霊の子の誕生と成長は、蝶の成長に似ています。御霊が住まわれることで、蝶の卵が置かれました。卵は孵化し、青虫になります。

 

  御霊が聖書のことばを思い起こさせ、教え、導き、癒しやしるしなど、この世の常識の外にある霊の世界の体験もさせてくださいます。夢で示したり、幻を見せたり、祈りが答えられたり、不思議な体験を与えてくださり、神をリアルに体験するようになります。

 

  御霊を持つ人にとって、神の国は実在の世界であり、疑う心はありません。天国に行くという確信もあります。御霊の信仰を持っているからです。彼らは、御霊によって神の国を味わっているのです。

 

  実際に神の国に入るためには、霊の子として生まれなければなりません。御霊を持つ人に、選択が迫られます。地上で神の国を味わうことで満足する人もいます。この世の歩みをしながら、神の御霊とも交流を持とうとします。命の中心に自分を置いたままです。口では「主よ」とイエスの名と呼びながら、人生の主人は自分自身です。悪魔の奴隷からは救われていますが、神が主人とはなっていません。

 

  自分自身に失望する人はイエスを求めます。自分自身に不安な人、自信の無い人は、自分自身で歩む事が出来ません。御霊が助けます。彼らは、御霊の導きを必要とします。

 

  自分に自信のある人も御霊と歩く霊の道は、わからないことだらけです。自分が誇っていた能力も才能も役に立ちません。自分の価値が問われます。情けない気持ちと劣等感に苦しみます。神の前に降参します。私には何もありません。傷だらけになった心で、嘆きます。しかし、御霊が支えます。みことばの光を与えます。

 

  「主は言われます。『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』」

 

  その時、十字架のキリストの死が迫って来ます。自分の肉は、神には役立たない弱いものであることを認め、キリストの十字架に自分の肉をつけて、自分の肉はキリストとともに十字架で死んだ。だから、生きているのは、キリストの復活の霊による。御霊によって生かされているのだと、新しい信仰の領域が開かれます。信仰の軸が、神に移されるのです。そして、神のために生きることを願う者とされるのです。

 

  御霊とともに生きることを選択した人は、御霊が与える様々な事柄を喜びをもって体験していきます。みことばに養われ、霊的な解放を体験していきます。何層にも重なっている様々な傷が時を追って癒されていきます。癒しを求めて癒される場合もありますし、気づかないうちに直っている場合もあります。

 

  癒しが進むと、解放の喜びを味わい、神を賛美します。賛美することを学ばなくても、賛美がその人のうちから湧きあがって来るのです。神への信頼と感謝が増し加わっていきます。

 

  赦せなかった心は和らぎ、怒り、憎しみが薄らいでいきます。神を賛美する中で心が変えられていくのです。御霊の働きです。自分の手で握っていたものが天に向けて手をあげ、神に賛美しているうちに、手からこぼれていきます。

 

  赦せなかったものを神に委ねます。怒っていたこと、憎んでいたことを悔い改め、赦すことを選びます。

 

  鳥に食べられる青虫もいますが、さなぎになるものもいます。青虫の段階で悪魔にそそのかされて、成長しない人もいます。しかし、悪魔を避け、神にすがった者、神のことばに従った者は、神のことばに逆らう、偽り者達の攻撃を受けて苦しみます。

 

  罪の世から救われたはずなのに、世に取り囲まれます。蔑まれ、侮られます。いばらの道です。救いの喜びはどこへ行ったのでしょう。神の御前に心注ぎ出す毎日です。祈っても答えられない日があります。神が離れてしまわれたのでしょうか。

 

  何か罪を犯したのでしょうか。私が間違っているのでしょうか。何もわかりません。周りに人がいても、遠く離れているようです。孤独です。神との楽しかったあの日々はどこへ行ってしまったのでしょう。

 

  青虫は、体の養分が溶け出して、全く違う形態のさなぎになったのです。自分の信仰と思っていたものも、一度壊されます。さなぎの期間は、外部との接触が断たれ、身動きが取れない、自分の十字架を負う時です。誰も理解しません。自分自身も理解できません。誰にも聞くことが出来ません。誰も教えることが出来ないからです。

 

  「あらゆる恵みに満ちた神、即ち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れて下さった神御自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

 

  神のことばにすがります。人に助けを求めることをあきらめ、じっと耐えた者達は御霊によって新しく生まれる者です。苦しみの刃でそがれた者が、神の産道を通って、霊の子として生まれます。

 

  美しい蝶の姿です。青虫、さなぎからは創造できなかった成虫の蝶は、空を羽ばたきます。地を這っていた時代を過ごし、自分の思うようにはならず、縛られた十字架時代のさなぎを経て、神の御国に生きる霊の子として生まれるのです。

 

  さなぎを破る時に大きなエネルギーが必要です。その労力は、強い羽に整えるために必要です。自分の力でさなぎから出た者は、強い羽根を持ち、遠くまで飛ぶことが出来ます。神のために多くの働きをする者となります。人に助けられてさなぎを出た者の羽は弱く、少しの働きをします。

 

  蝶は、神を喜び讃え、神を伝え、神の栄光を現わしていきます。新しく生まれた霊の子は、キリストが与える十字架を負います。悪魔が敵対して立ち向かって来ます。しかし、主が味方です。

 

  御霊によって生まれた霊の子は、御霊から学び、御霊に導かれ、神の子として整えられていくのです。苦しみの炉をくぐり、練り清められ、益々主への愛が深くなっていきます。

 

  神の愛と結びついた神の子をキリストの愛から引き離すものはありません。患難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も、引き裂くことは出来ません。愛してくださるイエスによって、御霊の助けによって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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