ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリスト教は愛の宗教

 

  「キリスト教は愛の宗教」という言い方を、キリスト教徒でない人でもします。

 

  宗教とは、人が心豊かに生きていくために、存在意義を模索し真理を探求して辿り着いた教えであり信仰です。魂の拠り所となる信条であり、人が作った救いの道です。その国独自の宗教、民族独自の信仰もあるでしょう。

 

  宗教には恐れが伴います。恐れからの解放のためにも、熱心に信仰します。熱心になればなるほど、心の支えが強固になる気がします。信仰に伴う安心です。

 

  地に属する信仰は、天を仰ぐことはありません。地上で生きる命を守っていただくために、また、死後の安心のために、目の前に置かれた本尊や像に向かって手を合わせ、唱えます。

 

  天に属する信仰は、天を仰いで祈ります。拝む対象がこの地上のものではないからです。

 

  キリスト教の場合は、天に向かって祈ります。イエスの御名を唱えるのではなくて、イエスの御名によって自分の言葉で祈ります。今は地上に生きていますが、帰る場所が天にあることを信じて、天の神に祈ります。

 

  信じることにおいては、宗教は同じです。何を信じるかで分かれています。この世界と同じようです。人種や民族、国に分かれていますが、同じ人間です。

 

  それぞれが、信仰対象とするものを拝み、信心しているのです。信じる人は信仰対象と、信仰によって繋がります。

 

  キリスト教の場合は、信仰によってだけではありません。愛によって、結ばれるのです。何故なら、神が愛だからです。また、いのちによって一つとなります。信じる者に、御霊が与えられるからです。御霊は、神の霊であり、永遠のいのちです。

 

  神からスタートしている信仰です。人から出たものではありません。この神は、創造主であり、地上が暴虐に満ちた時、ノアに箱舟を造らせ、地に雨を降らせて地と地にあるものを滅ぼした神です。大洪水の中から箱舟の中のノア一家を救い出し、生き残らせた神です。

 

  その神が、神を畏れる正しい人、アブラハムを選び、アブラハムと契約を結ばれました。神がアブラハムに声をかけ、名を呼ばれたのです。

 

  アブラハムに与えられた神の契約は、子のイサク、孫のヤコブに受け継がれました。そして、ヤコブの十二人の息子が相続しました。彼らは、ユダヤ民族であり、イスラエルです。神が名指しで呼んだモーセが、神から十戒を受け、イスラエルは、神に仕える神の祭司の国民とされたのです。

 

  神は御自身の御住まいとしてエルサレムを選んでおられました。それで、アブラハムに約束した通りに、神は、契約を相続したユダヤ民族に、イスラエルの地を与え、エルサレムに神殿を造ったのです。そして、神は、神の祭司の民イスラエルの中に救世主を遣わされました。

 

  ノアの時代、水で滅ぼされた神は、今度は火で滅ぼすことを定めておられます。義なる神が定めたことは、変わることがありません。

 

  神を畏れる正しい人ノアを救い出すために、神は、箱舟を作るように命じられました。箱舟によって、ノアは、水から救い出されたのです。

 

  火で滅ぼす時に、神を畏れる正しい人を救い出すために、神は、世の滅びから救い出す、キリストを神の祭司の民イスラエルに遣わされました。

 

  キリスト(救世主)は、神のひとり子でした。聖なる神の御子です。神は、御子に肉体を造り、人の子イエスとして地上に送られました。罪あるままの人間は、ノアの時代のように地とともに滅ばされてしまいます。神は、傷の無い神の子羊を生贄として屠ることで、怒りを鎮め、罪を赦すことを定められたのです。神の御子は、神の子羊イエスとして、地上に使わされました。

 

  神の御子は、父なる神に従い、天の栄光を捨てて、御使いよりも低い人の子イエスとなって、ユダヤ人に、父なる神について、神の御国について、永遠のいのちについて、教えられました。ユダヤ人は祭司の国民として、すべての国々や民族にキリストの福音を宣教する務めが与えられているからです。

 

  イエスは、神は、父なる神と御子イエスと真理の御霊なる聖霊であることを明らかにされました。天地が始まる前から存在する真理について解き明かされたのです。

 

  神の祭司のユダヤ人が、神が用意された神の子羊イエスを十字架にかけ、子羊の肉を裂き、血を流しました。罪の贖いが完了しました。それで、イエスを世の罪から救い出してくださるキリストであると信じ、神にへりくだる者を火の裁きから救い出されるのです。

 

  イエスは墓から復活し、ご自分が神の御子であることを公に示されました。イエスを主と告白し信じる者は、ご自身と同じように、甦ることを約束されました。「わたしは甦りであり、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも甦り、永遠に生きるのです。」そのために、聖霊を受けるように、命じられました。

 

  復活のキリストの昇天後、天から約束の聖霊が下られました。真理の御霊、もうひとりの助け主です。御霊は、信じる者のうちに住まわれ、彼らを教え、いのちの道に導かれるのです。

 

  キリスト教は一つの宗教ではなく、すべての宗教、すべての神々の上に立つ神です。すべてを統べ治められ、火の滅びから救い出される救世主であり、最後の裁きの座に着かれる裁き主とともにおられる弁護人でもあります。キリストの愛は、ユダヤ人でない人にも、異教徒にも、すべての人に注がれています。

 

  「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

  私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。神の愛から始まった信仰なのです。

 

  御子は、神の御姿である方なのに、神の在り方を捨てることが出来ないとは考えないで、父に従い、塵にすぎない人間と同じようになられました。

  聖霊は卑しき土の器(肉体)に住まうへりくだった御霊となられました。

 

  神が遣わされた御子を信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。聖書の神は、神の義を立てるために、命を捨てて人のいのちを救った、愛の神なのです。

 

  神の愛によって、人は救われるのです。それで、神の愛を受けたキリスト信者は、イエスを愛し、神を愛するのです。信じるだけではなく、愛によって完成される信仰です。

 

  神と人格的な交わりをもって、御霊によって造り変えられ育てられる、神の子の信仰です。天に属する信仰です。イエスを愛する者は、天に、帰るべき家があることを知っています。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍、楽天kobo